七章

 

 

 

 

此処最近、朔の処には頻繁に医者が出入りする様になった。念の為だ、心配するなと彼は言うが、私は戸口に医者の履き物がある度に背筋が凍る様な思いであった。

医者が帰ったのを見計らい、朔の部屋に茶を持って行った。襖を開けると、彼は布団から体を起こし、着物を直している最中であった。ちらりと見えた肩口の注射痕に、私は心底ひやりとした。喉の渇く感覚に襲われたが、何とか平静を装う。病人は彼の方なのだから、私がこんなに心配しても、仕方が無いのだ。

「すまない。」

茶を受け取りながら、朔はぽつりと言った。何がです、と問えば、お前に心配をかけているから、と哀愁の漂う瞳で応えた。

「心配は、しています。しかし、大丈夫ですよ。貴方はきっと、元気になる。また喫茶に行きましょう。貴方と同じ色をした菓子を食べたい。」

「チヨコレイトか。」

ふ、と優しく笑う彼からは、殆ど生気が感じられなかった。

「行きたいな、喫茶。」

「行きましょう。」

「今は、駄目だ。」

俯き小さく断る彼の背中は、大層細く、少しだけ震えている。

「お前と、色々な事がしたい。」

「私も、貴方としたい事が沢山あります。」

「この季節なら紅葉狩りか、冬になったら火鉢に当たりながら、餅を焼くのも楽しいな。」

「雪が降ったらかまくらを作りましょう。」

そんなに降らないだろう、と目を潤ませながら作り笑いをする。いまにも溢れ落ちそうな其れを隠す様に、私は朔を抱き締めた。声を殺して泣く彼の泪で、私の肩が濡れた。

 

「死にたくない。」

 

震える声でそう言う彼の身体に回す腕に力を込め、髪の香りを吸い込んだ。香の匂いが鼻を擽る。私はこの香りを生涯忘れないであろう。

「正一。」

私を呼ぶ少し掠れた美しい声。小さく返事をする。

「口付けをしてくれ。」

筋の付いた頬を赤らめてぽつりと言った。いつも何も言わずにしてくる彼が、私に直接そう強請ってくるのは、大層珍しい事であった。

ゆっくりと顔を近付け、唇を重ねる。背中を支えながら布団に寝かせ、白く艶やかな首筋に吸い付いた。短く喘ぐ朔は、私の頭を離さない。私の髪を掴んだまま身を任せ、時折噛み付くも力は無く、うっすらと歯形が付くのみであった。

「紅葉が見たい。」

肩に腕を回し、抱かれながら彼はそう呟いた。

「行きましょう。」

「軽く言ってくれるな。」

「必ず行きましょう。共に。私は貴方の御傍にいると、約束したのですから。」

必ず、な。」

深く頷き、行為に耽った。

 

朔の部屋を出ると、奥方に声を掛けられた。赤くなった目を隠すように擦り、返事をすると、彼女は懐から何やらきらりと光るものを取り出した。

「正一さん、お願いを聞いてくださるかしら。」

頷くと、其れを私の手に握らせる。開いて見てみると、黄金色に輝く指輪であった。

「朔が生まれて直ぐ作ったものよ。私の付けた名前ユリウスの名が刻んであるわ。此れを受け取ってくださらないかしら。」

「頂けません。」

こんなにも大切なもの、私の様な人間が持っていて良いものでは無い。しかし、奥方は一歩も引かず、首を横に振った。

「正一さんに、持っていて欲しいの。朔の想い人に。」

何故其れを、とつい口に出してしまったが、奥方はふふと笑って見ていれば分かりますよ、と応えた。私の指に合わせたから少し小さいけれど、と言って私の左手の小指にその指輪を嵌める。ぴったり嵌まった其れは、まるで朔の化身の様な気がした。

「あの子の髪が、一本溶かしてあるの。」

朔の一部がこの中に。そう思うと、更に大切なものだと感じて、私はもう二度と此れを外さないと心に誓った。

 

朔の両親に無理を承知で相談すると、快く了承してくれた。先の見えている息子に、少しでも幸せな時を与えて欲しいと言う思いからだった。

旦那様は、金は惜しまない、無理はするなとタクシイを呼び、朔と二人、隣町の山に向かった。頂上までは細い道が続く為、途中からはタクシイを降り、彼の肩を支えながら山道を登った。

もう少し、もう少し、と励まし合って登った頂上からは、町が一望出来る程の、大層美しい景色が広がっていた。

「綺麗だ。」

朔がぽつりと呟いた。紅葉に囲まれた町並みは、紅く染まり、秋の冷たい風でざわざわと揺れる。此れが最後の景色かもな、と笑って言う彼に、縁起でも無い事を言わないで下さい、と私は少々語気を強めて応えた。

「血で染まった様な紅さですね。」

「お前の血は、もっと紅いぞ。」

自分では分かりませんよ、と言うと、朔は私の指を噛む。歯形の付いた其処から、じわりと血が滲んだ。

此れくらいだ、と舌舐めずりをする彼に、私は軽く口付ける。屋外でしたのは初めてで、少々、否、大層恥ずかしい。耳まで赤くなっている私を見て、くつくつと笑う彼は、とても病人には見えず、私は此の儘、彼が元気に過ごし、歳を取るまで彼の傍に居られるような気がした。

「正一。」

秋空を見上げ、手を掲げながら朔は私の名を呼んだ。

「お前は、僕の名前を呼んだ事が無いな。」

「私なぞが、貴方の名前を呼ぶなど大変烏滸がましい事です。」

「僕はこんなにお前の名を呼んでいるのになあ。正一よ。」

呼んでくれないか、と落ちてきた紅葉を掴み、私に向き直る。

「朔様。」

「様、はいらない。」

「朔、様。」

如何やっても敬称の取れない私に笑い出し、懐に紅葉を仕舞った。

「いつか、その内な。」

僕が生きて居る内に頼むぞ、と肩を叩いた。

この時の私の失態は、悔やんでも悔やみきれない。

 

朔は、冬に入った頃から病床に臥せる様になった。もう、自分で起き上がるのも億劫だ、という風に一日の大半を寝て過ごした。私は彼の膳を運んだり、身体を拭いたりと、身の回りの世話をする様命じられた。

朔の身体は日に日に痩せこけ、肋が浮き、頬は凹み、もともと透き通る様な白い肌は青白く変わっていった。私と身体を重ねる事も無ければ、私の首筋を噛むことも無くなった。其処迄の体力は、もう彼には残っていなかったのだ。

食欲も減り、衰弱していく彼に私が出来る事と言ったら、布団の横で話し相手になる事くらいであった。今日は少し雪が降った、町では大晦日の準備で大層賑やかだ、そう言えば門前に門松が飾られた等、他愛も無い話をした。其れを彼は、目を瞑って嬉しそうに聞いていた。時折相槌を打ったり、質問したり。

透き通る様な青空の広がる日、朔は私に尋ねた。

「お前は、何処で生まれた。」

「地方ですよ。此処よりずっと寒い。東北の田舎です。」

彼は襖の向こうの冬の空を見詰めながら、ぽつりと呟く。

「ならば、雪が溶けた後の景色はさぞ美しいのだろうな。」

「そうですね。」

彼と同じように空を見上げて、故郷を思い出す。

「一面の白い雪が、どんどん溶け出し、碧に変わっていく様は、大層素晴らしいです。」

「若草が芽を出す頃に、僕も行ってみたいな。」

「何処にです?」

「お前の故郷に決まっているだろう。」

ふ、と夜のあの猟奇的な姿からは想像できない程、優しい顔で微笑んだ。私は思わずどきりとしてしまったが、彼から目線を逸らし、紅潮する頬を隠すように応えた。

「何も無い処ですよ。きっと、退屈だ。」

「お前と、若草の茂みがあれば、充分だろう。」

まるで求婚しているかのような言葉に、私の胸の鼓動が速くなる。おさまれ、此れは、ただの戯言だ。彼が本気で言っている訳、ない。

「信じていないのか?」

私の心を見透かしたように顔を近付け、その薄紅色の唇で口付けた。

「お前と一緒なら、何処だって大層楽しいのだよ。」

「仰る意味が分かりません。」

「僕にこれ以上、愛を説けと?」

私の頬を優しく撫ぜ、さらりと髪を梳いた。

「正一、愛しているよ。」

私はその言葉に返答出来ず、立ち上がって膳を下げた。

 

思えばあの時、彼の気持ちに応えていれば、最期に愛し合うことが出来たかもしれない。

彼の名を呼び、一言「好きだ」と呟けば、私はこの様に想いを引き摺る事は無かったかもしれない。

 

朔は、大晦日の晩、除夜の鐘が八十程鳴った頃、息を引き取った。

 

翌年の夏、私は戦争により徴兵された為、麻生家の奉公を辞める次第となった。噂では、跡取りの居なくなった本家は養子を取ったと聞かされたが、私にとって朔以外の人間は如何でも良く、戦争が終わってもあの家に戻る事は無かった。実家に帰り、農家を継いだ。

何年も経った今でも、朔のあの髪の感触が、あの綺麗なチヨコレイト色の瞳が、私の脳裏から離れない。彼は、死して尚、私の心に留まっているのであろうか。

左手の小指には、今も彼の一部である指輪が嵌められている。野良仕事で太くなった私の指から、もう二度と外れることはないであろう。それはまるで、彼が私を縛り付けている証のような気がした。

雪解けの足元を見ると、若葉が芽を出していた。朔の見たがっていた若草の茂みは、私しか知らない。彼の願いを叶えてやれなかった事だけが、私の最大の罪である。私は此の罪を一生背負って生きていく。

 

「朔、愛しているよ。今迄も、これからも。」

 

春の近付く音がする。さらさらと流れる雪解け水が、私を濡らす。空を見上げて呟くと、まだ陽があると言うのに、白い三日月が顔を出して居た。

 

朔。私の月。

 

私の罪を笑っているのだろうか。其れとも、許してやるぞとあの優しい笑顔を向けてくれているのだろうか。

頬を伝うのは、仄かに熱を持った泪。

彼に初めて食べられた首筋がじんと痛み、目を瞑ると、微かに香の匂いが鼻を擽った気がした。白檀の香り。彼に喰われ、身体を重ねた時のあの安らぎは、きっともう二度と私には訪れないであろう。

もう一度、愛しているよ、と呟いた其の声は、春風によって掻き消された。