六章

 

 

 

 

奥方が町に行った際、あんぱん、と言うものを買ってきた。何でも、小豆餡が包まれた洋菓子の様な食べ物らしい。パン、と言う馴染みのない言葉に、私は小首を傾げながら、目の前の皿を見詰めている。

「食べないのか?」

不思議そうに見ている私に、朔が声を掛けた。いらないなら僕が食べるぞ、と私の分をひょいと取り上げる。どうぞ、と言うと少々驚いた後、くつくつと笑った。

「お前は本当に、冒険心というものが無いな。」

食べた事の無いものに警戒心を抱くのは、可笑しな事だろうか。朔は半分に割った其れを私に渡す。西洋のぼた餅だと思え、と。

「まあ、外来の食べ物ではないがな。」

と付け足す彼は、もう半分を大きな口を開けて其処に放り込む。

確かに、中身は小豆餡である。其れには馴染みがあるが、如何せんパンと言うものがどう言った味なのか見当も付かず、其のふっくらとした見た目は、ぼた餅とは程遠い。鼻先を近付け、匂いを嗅ぐと、朔は笑い出した。お前は本当に犬の様だな、と言って泪まで流している。少々癇に障ったが、無視をして一口食べてみる。

私は目を見開いて、呟いた。

美味い。」

ふんわりとした食感と、餡の甘さが絶妙で、今まで食べた小豆餡の中でも一等美味しかった。

「何ですか此れは。」

「あんぱんだと言っているだろう。」

けらけらと笑う朔は、大層楽しそうだ。新しい奥方、朔の本当の母親が来てからと言うもの、彼は遠慮がちに生活していたが、私の前では相変わらず良く笑う。

何を楽しそうにしているの、と鈴の様な声で部屋に入ってきた奥方を見て、朔ははたと笑うのを止め、静かに伏せる。

「朔は、正一さんと仲が宜しいのね。」

そう言われて私は赤くなったが、チラリと横目で朔を見ると此方も耳まで真っ赤にして黙っていた。そうか、彼は単純に、恥ずかしいのだ。本当の母親に逢いたいとは思っては居たものの、いざ目の前にすると照れてしまう。まだまだ幼いな、と私は彼が一層愛おしく思えた。

年上の方と仲良くするのは良い事だわ、と言う奥方の言葉に、彼女は私を朔と対等に見てくれているのが分かった。下人としてではなく、朔の友人として認めてくれているのである。未だこの家に入って間も無いと言うのに、大層懐の広い御仁だ、と私は心の底から信頼するに値する人物だと悟った。

「正一さんは、学校へは行ってらしたのかしら。」

奥方に尋ねられ、中等科までは、と応える。

「其れなら、朔に教えて差し上げてくださるかしら。」

何をです、と問うと、お勉強ですよ、とくすりと笑う。鈴が転がるような笑い方をする婦人である。異人と言えど、貞淑で所作も美しい。

「私に教えられるでしょうか。」

「朔は未だ十三ですよ。正一さんの方が、色々知っていらっしゃるでしょう。」

朔の前では、私は知らない事ばかりだ。口籠もる私の肩をぽんと叩いて、頼みましたよ、と言った。

 

奥方に頼まれ、渋々了承した私は、朔に学問を教える次第となった。とは言え、華族である彼の方が高等な勉学を習っているであろうし、私は不安で仕方が無かった。

しかし、矢張り其処は病弱故なのか、朔の学問の知識は学校で習う其れよりも遥かに遅れていた。其れでも何時もの私を揶揄う彼とは違い、真面目に言う事を聞いて、文机に向かう。

一段落した頃、煎茶を啜りながら彼は尋ねた。

「正一、お前は頭が良いな。何故高等科へ進まなかった。」

疑問に思った事を口に出しただけなのだろう。私は俯き、小さな声で応えた。

「金が、無いのです。うちは貧乏農家ですから。」

だからこうして、華族の家に奉公に来て居るのだ。家柄だけなら決して華族なんてものには仕える事は出来なかったであろうが、幸い中等科では良い成績を残した為、この家の奉公を認められた。金さえあれば、私とてまだまだ勉学に励みたかった。

其れを聞いた朔は、少し考えてから、一寸待っていろ、と言い残し部屋を出た。暫くして戻ってくると、その腕には何冊かの本が抱えられていた。

「勉強なら、此処でも出来る。折角の頭を使わなくて如何する。」

彼は自分の文机に本を置き、此処で自分が見てやるから何時でも好きな時にやれ、と言う。彼の不器用な優しさに、泪が出そうになるのをぐっと堪え、有難う御座います、とだけ言って文机に向かった。

「僕は真面に学校なんてものには行っていないが、中等科と共に高等科の勉強も、少ししているんだ。教えられる処は僕が教えてやるから、お前は今日から書生になれ。使用人なんて下男は、卒業しろ。」

教え合いだな、と笑う彼の肩に頭を乗せて、静かに鼻を啜った。

 

お互いに勉学に励む日々の中、奥方が一冊の本を持ってきた。阿蘭陀の有名な画家を集めた、画集であった。

朔と二人でぺらぺらと捲ると、一枚の絵に目が留まった。

それは、風景の奥に美しい風ぐるまの様な物が付いた建物が描かれた絵であった。

「何と書いてあるのです?」

「ヤーコプファンロイスダール、阿蘭陀の風車の風景だな。」

「風車。」

「風の力で小麦を粉にする建物だ。此の風ぐるまが風で回ると、中にある仕掛けが動いてな。」

「こんな大きな風ぐるまが、風で動くのですか?」

「動くとも。」

「信じられません。」

「正一に、見せたいな。」

絵に釘付けになっている私を見て、ふふと笑う朔は、何故だか楽しそうだ。見た事があるのですかと問うと、一度だけ、と応えた。

「父と長崎に行った際にな。」

へえ、と生返事をしてしまう。その不可思議な風貌に、私は夢中になっていた。

朔はそんな私を揶揄いたくなったのであろう、優しく頬に触れ、その手をゆっくりと首許の洋シャツへ下ろしていく。

「仏蘭西ではな、」

一つずつ、釦を外しながら囁いた。

「赤い風車は有名な娼館だったそうだ。」

其の言葉と共に耳を食み、歯を立てて耳朶を喰らった。突然の事に驚き、血が付かない様慌てて本を閉じる。彼を見ると、口の中で私の肉を味わい、ごくりと飲み下した。私の身体を押し倒し、腹の上に跨った。未だ昼間です、と言う私の言葉には耳を貸さず、口付け、上顎を舌で犯す。

「私は娼婦ではありません。」

「分かっているさ。」

私の着物を脱がせ、露わになった胸をべろりと舐めた。

「正一は、僕だけのものだ。誰にも渡さない。」

脇腹に噛み付き、滲む血を舌で掬い、私が彼の所有物であるかの様に、痕を残した。