四章


「セイロン茶が飲みたい。」

朔が唐突にそんなことを言い出した。何を言っているのか分からず、私は小首を傾げた。

「せい?」

「セイロン茶。」

「煎茶ではなく?」

私の言葉に笑い出す彼は、腹まで抱えている。本当に田舎者だな、と涙を拭いながら言った。私は莫迦にされた気分になり、頬を膨らます。すると彼は、私の肩を叩いて、お前も飲めば分かる、と励ました。

「喫茶に行きたいな。」

「先日牛屋に行ったばかりでしょう。頻繁に出掛けては、お身体に障ります故。」

「番頭と同じことを言うな。」

「私も使用人です。貴方のお世話を頼まれている身としては、あまり無理をされては困ります。」

「正一が一緒に行けば良いじゃあないか。其れで万事解決だ。」

「いけません。」

ぴしゃりと言って退けると、朔は溜息を吐いて髪をくるくると弄り出した。拗ねた時の癖である。

私とて、彼にこんなに厳しくはしたくない。喫茶にだって大変興味がある。セイロン茶とやらも、飲んでみたい。しかし、番頭や奥女中から先日の牛屋の件で目を付けられているので、そう易々と二人きりで出掛けられないのだ。致し方ない。

「正一は、僕と出掛けるのは嫌いか?」

「そんな事は、」

「なら、良いではないか。何がいけないんだ。」

詰め寄られ、畳んでいた着物を落としてしまった。其れを見計らって朔は私に口付ける。

「お前と、色々な事がしたいと言っただろう。」

其の嬉しい言葉を言われると、反論出来ない。ぐうの音も出ない私ににやりと笑って、彼は着物を着替え出す。

「行くぞ。」

周りの目は大層冷ややかであったが、私はただ下を向き、黙って付いて行くしか無かった。

 

朔に連れられやって来た喫茶は、看板に大きく片仮名で『ノスタルジイ』と書かれていた。如何言う意味なのだろう、とも思ったが、朔曰く、喫茶の名前なんかに意味は無いそうだ。西洋の言葉の語呂だとか、響き等で選んでいる場合が多く、実際の使い方とは大きく異なるらしい。そう言うものだろうか。

席に着くと、注文書を渡された。私は字は読めるが、そこに羅列されている食べ物や飲み物がどの様なものであるかが分からない。メニユウは決めたか、と朔が言うので、メニユウとは、と聞き返すと笑われてしまった。

彼は店員にセイロン茶と、何やら聞き覚えのないものを頼んでいた。甘いものは好きか、と言う彼に、あまり食べ馴染みのない私は取り敢えず、はい、と応えた。

甘いものを頼んだのか。一体何だろう。私の知っている甘いものといえば、ぼた餅か、田舎の親戚が土産でくれた金平糖くらいであろうか。金平糖は、味は好きだが歯触りがざらざらしていて、苦手であった。

暫くすると、店員が見た事も無い形の入れ物に、茶色い液体の入ったものを持って来た。如何やらこれが、セイロン茶らしい。朔の説明によると、煎茶と茶葉は同じだが、こちらは発酵させていて、セイロン茶と言うのは紅茶というものの一種らしい。朔は其れに砂糖を大量に入れた。甘い茶など考えた事も無かった私は大層驚いたが、紅茶は甘くても美味いのだぞ、と言われ、それに倣って私も少しだけ砂糖を加える。ほんのりとした甘味、嗅いだ事の無い芳ばしい香りがした。甘くても、美味い。全くその通りであった。

次に小皿に盛られて出て来たのは、これまた茶色い固形物であった。小さな四角いものが、五つほど並んでいる。見るからに固そうで、とても食べ物とは思えない。

「固そうに見えるが、口の中で溶けるから心配するな。」

そうは言われても、見た目だけでは食欲は湧かない。ほら、と私の鼻先に其れを持ってくる朔。ふわり、と甘い香りがした。思い切って少しだけ齧ってみる。思いの外柔らかく、朔の言った通り、口の中で溶け、何とも言えない甘味が舌の上に広がった。

「此れは何ですか。」

興奮気味に尋ねる私にくすくすと笑いながら、チヨコレイトだ、と告げる。

「此れを食べると、恋をしている時と同じ気分になるらしいぞ。」

チヨコレイトを一つ口に放り込んだ朔は、身体を起こして向いに座る私に口移しで其れを食べさせた。舌に触れたチヨコレイトは、じわりと溶け、蕩けるような甘さが広がる。其れとは別に、私の頬も赤く染まる。

気分は如何だ、と問われ、口籠もっている私を見て口角を上げる朔。恋をした気分になったか、と笑顔を向ける彼の其の真っ直ぐな瞳に、私は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

「揶揄うのは、お止め下さい。」

何とか絞り出した声でそう言うと、私の手に触れ、甲をゆっくりと指でなぞった。

「揶揄っていると、思うのか。」

その顔は真剣そのもので、しかし私は勘違いなどしてはいけない、と自分に言い聞かせる。彼がどんなに私を好きと言っても、優しくしたとしても、身体を重ねても、其れは私の肉が彼の口に合うからであって、第一下人と華族では身分違いもいい処だ。彼と結ばれるなど、私の妄想だけで充分である。実際にそんな事は有り得ないのだから。

私の指先をカリカリと引っ掻きながら、朔は続けた。

「お前は僕を好きでは無いのか。僕が命じるから、一緒に居てくれるだけなのか。僕の両親の体裁の為なのか。」

「そんな事は、」

思わず椅子から立ち上がり、大きな声を出してしまった私は、はっとして座り直し、小さな声で否定した。

「そんな事は、一切有りません。」

「僕の事を愛しているか?」

「其れは、私の口からは決して言えぬ言葉です。」

かちゃりと食器の擦れる音だけが、其の空間に響いた。朔は何かを考えているかの様に顎に手を宛て、黙っている。私はセイロン茶をちびちびと飲みながら、彼の言葉を待つ。

暫しの沈黙の後、朔はゆっくりと口を開いた。

僕が、お前を愛する事は、罪なのか。」

「罪という程では、」

「お前の言い方なら、そうなるだろう。」

俯いた後、私は静かに自分の気持ちを話した。

「貴方が私を愛する事は、一向に構いません。しかし、私の立場で、私から貴方を愛する事は、許されないのです。其れは、貴方を嫌っていると言う意味では有りません。此れ以上の説明は、私が罰せられてしまいます。」

「お前と僕の、罪か。」

ふふ、と袖で口許を隠し、何故だか楽しそうに笑った。

「しかしな、」

彼は笑顔を引っ込め、セイロン茶を一口飲んでから続ける。

「僕の気持ちに応えないのも、罪だぞ。」

「其れは、」

「お前の最大の罪だ。今後僕に愛を謳わないのなら、其れは僕にとって大層苦痛になる。其れでもお前は、僕の事を愛せないと言うのか。」

そう仰られても、」

「誰にも言いやしないさ。正一、お前はそんな言い訳を並べているが、僕を大層愛している。態度を見れば分かる。僕もな、お前を一番に想っている。秘めたる恋だ。僕達だけの。」

秘事。その言葉がどんなに私の心を揺すぶったであろうか。私の泳ぐ目を見ながら、朔は満面の笑みで私の口にチヨコレイトを運んだ。

 

屋敷に戻り、朔を部屋に送り届ける。襖を閉める際、また今晩な、と言って頬に口付けられた。廊下から使用人部屋へ戻る際の私と言ったら、浮き足立っていて、タンタンと踊るように歩いたりして、まるで純情な乙女の様で、さぞ滑稽であっただろう。

秘めたる恋。其の言葉がどれだけ私の心を擽ったか。こんなに楽しい事は無い。誰にも言ってはいけないと言うものが、どれだけ人を情熱的にさせるのか、私は今まで知らなかった。

その上、朔は私を一番と言ってくれた。私が朔の一番の想い人なのだ。ただの下人が、高貴な御方のお眼鏡に適った。こんな私が。ふふふと思わず声に漏れてしまった事に気付き、慌てて咳払いをして誤魔化した。

その際、奥方と擦れ違うと、ぴたりと足を止め私の名を呼んだ。何用かと思い返事をすると、正一、随分と嬉しそうだねえと言われてしまい、嬉しい事があったのです、と応えると、其れは恋のお話かしら、なんて言われたものだから、私はすっかり顔を赤くして硬直してしまった。

「そんなに照れなくても宜しいのよ。正一の年頃なら、有り得る話でしょう。」

そう言いながら着物の袖口で口許を隠す所作を見て、私は朔を思い出し、更に赤くなった。

奥方と朔は、顔は似ていないが、所作が良く似て居る。矢張り育った環境であろうか。髪の色や瞳の色、肌の白さなどは全く違うのだ。だからと言って完全に旦那様に似ているのか、と言われると、朔からはまた違った色香を感じる。

奥方は、朔とは違う其の黒く艶やかな、少しほつれた髪を梳かしながら、私の耳元でそっと囁いた。

「正一、今晩朔の世話が済んだら、私の部屋に来なさい。話を聞いてあげるわ。」

呆然としてしまった。華族の奥方が、私の恋の話を聞く?奥方は洋酒を嗜むので、其の肴にでもするのだろうか、其れとも私が余りにも楽しそうだから、優しさで聞いてやろうと思ったのだろうか。

無下に断る事も出来ず、其れに私も誰かにこの恋焦がれている話を聞いて貰いたかったと言う欲望には勝てず、はいと返事をして彼女の後ろ姿を見送った。頸から垂れる髪が、大層色っぽかったのを覚えている。