一章
 
 
 
これは、私がまだ十六の頃で、華族として有名な麻生家の使用人として仕えていた時の話だ。
麻生はそれは煌びやかな生活をしている由緒ある家柄で、両親は一人息子の十三になる朔の事を大層愛していた。しかし、彼には生まれつき重篤な病気があった。確か、私の記憶が正しければ、心臓だったか。あと一年、あと一年、と毎年医者に言われては、朔は身体こそ弱っていったものの、何とか生き延びていたのである。そんな彼を救うべく、両親は様々な治療法を模索した。最終的には、俗物的な言い伝えや呪術等、試せるものは全て試した。今思えば、それは大切な跡取りを絶やすわけにはいかないと言う世間体もあったのかも知れない。華族にとって、跡取りがいないと言う事は、家系の終わりを意味する。それも、朔は麻生の本家の息子だ。必死になるのも分かる。
その中でも、たった一つ、これも冷静に考えると大層頭のおかしい方法であったが、その俗物的な治療法が、朔の命を長らえさせた。
朔の部屋には、毎晩、女中が一人入っていく。その頃の私は、なんと穢らわしい方法を選んだのだろうか、と麻生家を蔑んだものだ。十三の子供に女を宛てがうなど、とても信じられなかった。朔の部屋からは、嬌声とも悲鳴とも取れる声が漏れ、しかし不思議な事に、朔の部屋に入っていった女中は、翌朝には見る事はなかった。私はてっきり、口封じのために辞めさせられたのかと思っていた。華族としての名誉のために、金でも払っているのだろう、と信じて疑わなかったのだ。それに、毎日の様に新しい女中が雇われていたので、私の仕事の負担が増えることも無かったし、そんな事を私のような下人が気にしたって仕方のない事だと割り切っていた。女中達は専ら、ああ私こそ朔様に相応しいのに、等とまるで夢を見る乙女の様な口振りで、選ばれていった女達の悪態を吐いたりしていた。
その為、ある晩あまりにも酷い唸り声が聞こえた朔の部屋をそっと覗いた時、私は悲鳴をあげそうになった。
そこは、最早部屋というよりも、屠殺場の様な、血塗れで、至る所に女中であった筈の肉片が転がっており、朔は女中をその言葉通り、貪っていたのだ。
人間が、人間を食う。そんな事が現実にあっていいものか。内臓をぺちゃぺちゃと舐め、肉に食らいつく朔は、昼間の病弱で今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気とは一変、まるで獣の様であった。凍てつくような眼差しを今でも覚えている。その眼光は鋭く、月の光のせいかはたまた行燈の明かりのせいか、橙に染まっていた。
恐怖で息が止まる。腰が抜けて動けない。しかし、何とかこの場を去らなければ、見付かってしまう。私も、あの女中の様に食われてしまうかもしれない。辛うじて動く左手で、這う様にして逃げようとすると、足が襖に当たり、カタン、と微かな物音。咀嚼音が止んだかと思うと、ぺたり、ぺたりと足音が此方に向かって来た。す、と少しだけ開いた襖の間から、ギラリと光る朔の瞳があった。人は恐ろしすぎると声も出ないのか。ああ、もうお仕舞いだ。そう思って強く拳を握り、目を閉じた私に、朔は何事も無かった様に襖を閉め、部屋に籠った。
暫くは何が起きたのか分からず、呆然としたが、自分の身体を触り何処も欠けていない事を確認すると、安堵の息が漏れた。と、部屋から朔の少し高い声が聞こえた。
「明日の夜、来い。」
安心したのも束の間、そんな言葉を投げかけられ、私は動かぬ足を引き摺り這い摺り、自室に戻ると眠れぬ夜を過ごした。
 
翌日、女中達は専ら私の噂話で持ちきりだった。どうやら今夜は正一が選ばれた。男だろうと関係ないのか。ああ羨ましい。朔様に手込めにされるなら本望だ、と。
他人事に話す女中達に、嫌気が刺した。同時に、恐怖が背筋を襲う。今迄の女中は、朔に喰われていた、と言うことになる。ならば私も、今夜彼の食料になるのではないだろうか。カタカタと震える手を隠しつつ、何とか日中の仕事を終えた。
夜になり、夕食の膳は私が運ぶ事となった。いつもは選ばれた女中が運び、そのまま部屋に籠るのである。何度も引き返そうと思ったが、此処で逃げても麻生の力には及ばない。必ず見つけ出され、殺されるだろう。朔が両親に何か言ったかは分からないが、彼の一言で私の生死は決まってしまう。否、この時既に決まっていたのかもしれない。必死に逃亡を繰り返し無惨に殺されるか、誰にも知られずに食われるか。私にはもうその二択しか無かった。それならば、一応は忠誠を誓った此の家に尽くすのが、使用人である私の務めだ。
朔の部屋の襖は、今迄よりも不気味に感じた。声を掛け、静かに開けると、布団で身体を起こして座っている朔が居た。白い肌に纏う白い着物が、異様さを一層引き立てていた。目だけを動かし辺りを見渡すが、昨夜の凄惨な部屋とは思えない程に片付けられていた。夢だったのだろうか、と思ったが、彼に近付こうと一歩踏み出した時、ぬるりとした感触が足の裏にあった。拭き残された血が、畳にこびり付いていた。思わず悲鳴を上げそうになったが、深く息を吐き、彼に悟られない様平常心を装った。
布団の横に膳を置き、そのまま黙って座る。緊張で汗が吹き出してくる。なるべく震えは抑えたが、目が泳いでいたかもしれない。朔はくつくつと笑って、私の髪に触れた。びくり、と肩が揺れる。再び笑い始める彼に、私は少々怒りを感じた。こちらは使用人といえど、年上だ。馬鹿にされている気になる。
「怯えるな。」
静かな部屋に、朔の声が響く。
「何もしないよ。…それとも、昨夜のことが気になっているのか?」
「昨夜の事とは。」
わざととぼけて見せると、彼は今度は大声を出して笑い始めた。
「面白いな。無かった事にしようと言うのか。実に面白い下男だ。」
「正一と申します。」
彼は独り言のように「しょういち」と小さく呟き、私に向き直る。
「正一、僕は腹が減っているんだ。」
にやりと笑ってみせるその顔は、昨夜の獣物の顔を思い出させる。背筋が凍る感覚。ああ、お仕舞いだ。そう思ったが、彼は私ではなく膳にある茶碗に手を伸ばし、白飯をガツガツと食べ始めた。茄子の漬物も大層美味そうに食べる。ほっと胸を撫で下ろした途端、私の腹がぐうと鳴った。彼は笑って白飯を溢したが、自分の茶碗から一口、私の口元に持ってきた。如何すれば分からず首を傾げていると、命令の様に少し低い声で言った。
「食え。」
言われた通り、彼の箸に口を付けると、彼は嬉しそうにもう一口、もう一口と私に飯を運ぶ。私が普段食べている様なものとは比べ物にならない位に豪勢で美味しい飯に、思わず食べてしまったが、は、と気付き彼の手を止めた。
「私の分は、別でありますから。」
「僕の与えるものが食べられないと言うのか?」
そう言われると逆らえない。赤子に食事を与える様に、朔は私に餌付けした。
結局、朔の夕食は私が殆ど食べてしまった。朔は満足した様に箸を置き、私の顔をじっと見つめた。顔を近付け、ゆっくりと口を開ける。ああ、やはり今迄の事は単なる飯事で、彼の食事はこれからが本番なのか。強く目を瞑り、体を硬直させた。
ちゅ、と私の口の端に口付けたかと思うと、其処をぺろりと舐めた。驚いて目を開けた私に、朔は私の口を自分の着物で拭きながら、言った。
「米粒が付いていたぞ。」
拍子抜けだ。体の力が抜け、その場に倒れ込み深く息を吐いた。それを面白そうに笑って見る朔。何なんだ、この御方は。完全に揶揄われている自分が、情けなくなる。
「何をされると思ったのだ。」
笑いすぎて涙を流しながら、朔が言う。別に何とも、と私が頬を膨らませると、彼は私の手をそっと握り、その手をべろりと舐めた。何が起こったのか理解できず、慌てて手を離すと、凍てつく眼光で睨みつけられる。
「お前は、僕が此処で何をしていたのか、分かっているのだろう。」
一瞬忘れていた恐怖が、襲いかかる。そうだ、私は、彼に食われる為に此処にいる。再び硬直した私に、朔が擦り寄ってくる。鎖骨を撫ぜられ、首筋に噛み付かれた。ぶちぶちと皮膚の破ける音が響く。痛かったが、叫んではいけない気がして、私は冷や汗を垂らしながら必死に声を抑えた。流れる血を舐め取ると、彼は口を離した。私はそっと噛まれた部分を触って確認した。無くなっては、いない。ただ、歯形がくっきりと残っている様で、じんじんと痛み、指には少し血が付いた。
「うむ、なかなか美味いじゃあないか。」
私の血でてらてらと光る唇を舐めながら、朔はそう言い放った。
「明日も、来い。お前は僕を楽しませてくれそうだ、正一。」
結局、その晩は噛まれただけで、食われずに済んだ。膳を下げにきた私を見て、女中達は大層驚いたが、やはり男は駄目だったのかしら、等とこそこそ話すだけに留まった。
運が、良かったのだろうか。私が女だったなら、とうに食われていたのだろうか。布団に潜りながら、朔のあの目を思い出す。少し赤みがかった、あの夜見た橙の瞳とは違う、優しい目をしていた。彼は本当は、人など食べたくないのではないか。しかし、私がそんなことを考えたって、何も変わらない。ただの下男に出来る事は、朔の為に膳を運ぶ事だけだ。
明日も来い、か。
夢現の中、彼の言葉が呪いの様に頭の中に木霊した。