14.幸福
カーテンの隙間から溢れる朝日が顔に当たって、眩しくて顔を顰めた。ふ、と目を開けると、隣にはカリーム寝顔。寝ている時のカリームは、ふわふわの髪に寝癖が付いて、穏やかな顔をしていて、飼い主を信頼している犬みたいだ。
悪戯がてらに鼻を摘んでみると、息が苦しいようで口がパカリと開く。
面白くなってきた。声を殺して笑う。写真撮りたいなあ。しかし、携帯は居間のテーブルの上だ。
もぞもぞと動くカリーム。布団がはだけて、たわわな胸が露わになる。いつも顔を埋めているけど、普段ゆっくり見ている余裕は無い。やっぱり、凄いなあ。突いてみると、程よい弾力。筋肉、だよなあ。自分の薄っぺらい胸を確認して、ため息を吐く。そって撫でてみる。カリームは、思いの外、体毛が薄い。すべすべしている。
胸に夢中になっていると、腕を掴まれた。
「おはようございます、サクラさん。」
いつの間にか、カリームが起きていた。自分のやっていた事に気付かれて、恥ずかしくて顔が赤くなる。カリームはニヤリと悪い顔。
「誘惑、してますか。」
「そ、そんなんじゃなくて、」
キスで口を塞がれる。朝から濃厚なキスに、腰が抜ける。
「朝から、こんなっ、」
「サクラさんが先に誘惑しました。」
そう言って耳を舐められた。
「ひあっ、」
「サクラさん、朝はキラキラしていて、綺麗ですね。」
寝癖だらけの俺の何処が綺麗なのか分からなかったが、そんな事お構いなしにカリームは続きを開始した。
いくら学校が休みとは言え、朝から3回もするとは思わなかった。昨夜もしているから、もう何回やったのかなんて数えるのが馬鹿馬鹿しくなる。
カリームはすっきりした顔で、服も着替えてトーストを焼いてくれている。俺はまだ下着姿で、ちびちびとコーヒーを飲む。
トースターのパンが焼けた合図の音と共に、チャイムが鳴った。カリームがパタパタと玄関に向かう。こんな朝から何だろう、と思ったが、もしかしたら大学で使う本を通販で頼んでおいたからそれかな、なんて考えていた。
すると、慌てて戻ってきたカリームが、部屋の扉を背に、珍しく青い顔をして言った。
「サクラさん、」
宅配便じゃないの、と言う呑気な俺に首を横に振る。
「服、着てください。」
「どうしたの。」
ごくり、と唾を飲み込んで、深く息をする。
「お父さん達が、来ました。」
「え?」
「パキスタンから、僕の家族が来ました。お母さんは僕がゲイだと知っています。でも、お父さんと妹は、あまり家にいないので、知りません。言っていません。」
俺も急いで服を着る。そういえば、カリームのお父さんって、血が繋がってなくて普段家にいない、とか言っていたような。妹がいた事は初耳だが。
取り敢えず身嗜みを整えて、玄関に向かう。
カリームが深呼吸をして、扉を開けた。
「カリーム!!!」
頭に布を巻いた女の人が、カリームに抱き付いた。それを顎髭を生やした男の人が、ニコニコして見ている。妹は、と下を見ると、女の人と同じ様に布を巻いた女の子。小学生くらいだろうか。こちらは無表情でその様子を見ている。俺と目が合うと、ぱっと顔を逸らされた。
男の子なら、真央で慣れているけれど、女の子は難しい。
「サクラさん。」
会話を終えたのか、カリームが俺に話し掛ける。
「お父さん達は、休みになったので、驚かせようとしたみたいです。ごめんなさい。」
「カリームが謝る事、ないよ。俺は大丈夫だから。」
ごめんなさい、と再び頭を下げるカリームの肩をぽんと叩いて、気にしないでと告げる。
「君が、サクラくんかい?」
突然、カリームのお父さんが流暢な日本語で話し出した事に驚いていると、手を差し出してきた。握手をすると、よろしく、とカリームとは違った笑顔で言った。顔は似てないけれど、優しい雰囲気は少し面影があるかも。
「あの、玄関じゃあ何だし、中へどうぞ。」
促すと、靴のまま入ろうとする3人をカリームが止めて、脱ぐ様に指示している様だった。
居間に入って、クッションを用意する。お茶を出して、カリームはウルドゥー語で両親と話している。俺の隣には、妹さん。黙ってお茶を啜っている。居心地悪いかな、と思って話し掛けてみる。
「お菓子、食べる?」
黙ったまま、前を向いている。取り敢えず、棚に入っていたクッキーを出す。
「好きかな?クッキー。えっと、」
携帯でウルドゥー語を検索していると、口を開いた。
「馬鹿にしないで。」
日本語で返されて、驚いてしまった。
「私、結構頭の良い学校行ってるの。日本語くらい、分かるわ。」
「そっか、ごめんね。」
「お母さんはウルドゥー語しか話せないけど、お父さんと私は日本語も英語も、他にも色々話せるから。お兄ちゃんより日本語上手だし。」
「凄いね。」
思わず感嘆の声を上げると、少し照れたのか、下を向かれてしまった。
「名前、教えてくるかな?俺は、桜。桜 晴人。」
「...サーマ。」
サーマちゃん、と呼ぶと、ちゃんは付けないで、と言われてしまった。子ども扱いしないで、と。
「サーマは、いくつ?俺、5歳の甥っ子がいるんだ。」
「10歳。」
大人っぽいね、と言うと、やっぱり下を向かれてしまった。俺、嫌われてるのかな。少し落ち込む。
突然、カリームが大きな声で驚いた。ウルドゥー語だから何を話しているのか分からなくて、俺はただ呆然と見ていると、サーマが通訳してくれた。
「今日、泊まるって。」
「え?」
「此処に、泊まりたいって。急に来たから、ホテルは明日からの分しか取ってないの。」
それは困った事になった。
「カリーム、俺達、今日バイトだよね?」
「はい。だから、駄目だと言っています。でも...」
「私達の事は気にしなくて良いよ。食事なら外で済ませるし、寝る所さえ貸してくれれば。サクラくんとも、色々お話したいんだ。カリームが日本人の中でも1番仲良くしてくれている、と聞いているからね。」
あ、やっぱり付き合ってる事は言ってないんだ。少し身構えてしまう。
「えっと、泊まるのは構わないんですが、布団が。」
「ソファで寝るから大丈夫だよ。」
「そんな訳には、」
サーマが俺の服の裾をくいっと引っ張って、小声で言った。
「お父さん、1度言ったら聞かないの。何しても無駄だよ。」
取り敢えず、布団の件は、バイトに行ったら店長に相談してみよう。
カリームの家族を置いて、コンビニに向かった。
「突然来るのが、いけません。電話して欲しかったです。」
珍しくぷんぷんと怒るカリームを可愛いと思ってしまう。俺に振り返って、サクラさんごめんなさい、と謝り続ける。
「もう、謝らなくて良いよ。ごめんは、もう無し。」
申し訳なさそうにしゅんとするカリーム。悪いけど、可愛すぎて抱き締めたくなってしまう。バックルームには2人きり。今なら、少しなら、良いかな。
着替えているカリームの頬に、背伸びをして軽くキスをする。カリームは少し照れ臭そうに、頬を摩った。
バイトの合間に、店長に布団の件を聞くと、使っていないのがあるから届けるよ、と言ってくれた。助かった。
バイトが終わって、店長の家に寄り布団を借りて、車で送ってもらった。
2人で運べば何とかなるもんだ。部屋に入ると、カリームのお母さんとサーマはソファで黙って空を見つめていた。お父さんは、と見るとベッドの横の棚を見つめて立っていた。
どうしたのだろう、と思っていると、カリームが布団を落として駆け寄った。カリームはお父さんに、何か説明している様子だったが、お父さんは大きな声で怒っている様に見えた。
何が何だか分からず、取り敢えず布団を置いて、ソファの2人に声を掛ける。
「あの、」
見ると、お母さんは泣いている様だった。どうしたものかと戸惑っていると、サーマが言った。
「ハルト、お兄ちゃんと恋人なの?」
キツい眼差しで見つめられて、後退りしてしまう。何も言えずにいると、お父さんに呼ばれた。
「何だ、コレは。」
お父さんが手にしていたのは、未開封のコンドーム。ベッドの横の棚に入れておいたやつだ。
「サクラくんは、友達じゃあないのか。君は、カリームの何なんだ。」
お母さんが泣きながら割って入る。ウルドゥー語で何か説明している様だったが、お父さんの剣幕は変わらない。サーマはソファで項垂れている。
どうしよう。どうすれば良いんだろう。何がいけないのだろう。
「ムスリムは、」
カリームか小さな声で言った。
「イスラム教は、ゲイを容認していません。今は昔に比べたら、理解のある人、増えました。それでも、嫌いな人が多いです。」
だからお父さんには言いませんでした、と。
カリームがイスラム教なのは知っていた。毎日お祈りしていたから。それでも、そこまで詳しい知識があった訳じゃない。カリームのお母さんは実のお母さんだ。だからきっと、今のお父さんと出会う前からカリームがゲイだと知り、理解していたのだろう。お父さんとサーマは普段家にいないから、説明する時間も無かったというのもあるのかもしれない。
それでも、お父さんがこんなに嫌悪感を露わにするとは思わなかった。
一緒に暮らしているからには、俺にも説明する義務がある。
「あの、」
緊張して声が上擦ってしまったが、関係無い。
「その通りです。俺は、カリームと付き合ってます。その、一緒に暮らしているのも、そういう事です。」
「君がうちのカリームをそっちの道に引き摺り込んだんだな?!なんて奴だ!日本人は!人畜無害な顔をして、人を陥れるなんて!」
日本語だけでなく、ウルドゥー語でも罵声を浴びせられた。言ってる意味は分からなかったが、恐らく酷い事を言われているんだろうと言う事は分かった。
「お父さん!」
カリームが、俺を庇う様に前に出た。
「サクラさんは、悪くありません。僕がサクラさんを好きになりました。僕はずっと昔から、ゲイなんです。言わなくてごめんなさい。」
その言葉に、お父さんはカリームの頭を叩いた。あの温厚そうな笑顔からは考えられない形相で。
体格的には、カリームの方が優位だろうが、カリームは決して反撃しなかった。俺は胸が締め付けられて、苦しくなる。どうすれば良いのか、分からない。頭がぐるぐるする。吐きそうだ。必死で吐き気を抑えて、何とかしなければ、と頭を働かせる。それでも、目の前で殴られているカリームを見ていると、何もかも吹き飛んでしまう。
どうしたら、俺に何が出来るのか。分からない。頭が痛い。気持ち悪い。
ふ、と目の前が真っ白になって、俺の頭のブレーカーが落ちた感覚。
俺はそのまま、床に倒れ込んだ。
目が覚めると、俺の顔を覗き込むサーマと、真央がいた。
「晴人兄ちゃん、起きたー!」
真央が居間に走っていく。
右手に温もりを感じて、見るとカリームが俺の手を握って俯いていた。
ベッドに寝かされた様だ。ゆっくりと起き上がると、カリームも顔を上げた。真っ赤な目で、涙の跡がある。
「サクラさん、ごめんなさい。」
震える声で言った。そんなカリームの頭を撫でてやると、一筋涙が溢れた。
居間の方では、英語で捲し立てている女の人。果穂姉さんが、カリームのお父さんに何かを訴える様に、凄い剣幕で迫っていた。ソファには、カリームのお母さんが、姉の旦那に背中を摩られて落ち着く様に促している。
姉さん、わざわざ来てくれたのか。
「カホさんに、電話しました。僕、どうしたら良いか、分からなくて。」
手を握る力が強くなる。身体が震えている。
「全部、僕が悪いです。」
「何も悪く無いよ。」
優しく、穏やかに言う。
「カリームは何も悪く無い。俺は、カリームと一緒になれて、今人生で1番幸せだよ。何があったって、誰に反対されたって、俺はカリームといたい。ずっと、一緒に、幸せになりたい。好きな人と幸せになりたい気持ちって、何処かおかしいかな?」
「おかしくありません。」
「そうだよね。カリームは、たまたま男の人が好きで、その相手がたまたま俺で、でもその偶然が重なって、今の俺の幸せがあるんだよ。だから、俺はカリームに感謝しかないよ。謝る必要、ない。」
「有難う、言いたいのは僕の方です。」
「じゃあ、お互い有難う、だ。」
力は入らなかったが何とか笑顔を作ると、カリームは俺を抱き締めた。
「果穂姉さん。」
姉を呼ぶと、すぐさま飛んできて、大丈夫、頭は、具合は、と聞いてきた。それからカリームのお父さんを睨んで、英語で何かを言った。お父さんは、バツが悪そうな顔をして、咳払いをした。
「サクラくん。」
顎髭を撫でながら、俺の名前を呼ぶ。はい、と返事をすると、先程迄の勢いとは一変、静かに話し出した。
「すまなかった。つい感情的になってしまって。お姉さんにも言われてしまったよ。私が同性愛について、無知だと言う事を。」
それからカリームを見て、続けた。
「息子が、カリームがこんなに人を愛している所を私は見た事が無かった。私が妻を愛した様に、カリームも、ただ君を好きになった、それだけの事だったのに、此処に居る人皆を傷付けてしまった。もう一度謝らせてくれ。すまない。」
深く頭を下げられて、慌ててフォローする。
「いや、そんな、姉が何を言ったかは...大体想像がつきますけど、でも、そんなに謝らないでください。俺は、お父さんがカリームを認めてくれれば、それで良いんです。」
「君は、優しい子だね。」
俺の頭をくしゃりと撫でる。
「カリームは、幸せだ。君の様な人に出会えて。」
それから目線をカリームに移して、ウルドゥー語でゆっくりと話した。カリームの顔が、だんだん明るくなっていく。俺の左手の薬指の、カリームがくれた指輪を見せて、何かを説明している様だった。お父さんは頷くと、俺に話を戻した。
「サクラくん、パキスタンに来る気はあるかい?」
「へ?」
後ろにいたカリームのお母さんと、サーマが、笑顔を向けた。
「残念ながら、パキスタンでは同性愛は、違法に当たってしまう。それでも、君の様な素晴らしい子を私の家族や友人に紹介したい。息子の婚約者として。」
「こ、ん...?」
何を言っているのか、とカリームを見ると、とびっきりの笑顔。ちょっと待って。説明して。
カリームは、俺の両手を取って、真っ直ぐに目を見て言った。
「サクラさん。」
「は、」
「学校、卒業したら、結婚しましょう。」
「...へあ?」
間抜けな返事をしてしまった。カリームは、そのまま俺の唇にキスをする。その場にいた全員が、歓声を上げた。
「実は、上等なワインを持ってきてるんだ!」
姉の旦那が鞄からワインボトルを取り出して、ポン、と開けた。
「今夜はお祝いね!あ、真央とサーマはジュースだからね?」
姉はグラスを持ってきてそれぞれに注ぐ。
頭がついていかない。何が起こってるんだ。婚約?結婚?それ、俺の事?
カリームのお母さんが側に来て、自分の腕に嵌めていたブレスレットを俺に渡し、ウルドゥー語で言った。サーマが通訳してくれる。
「これ、カリームの実のお父さんから貰ったものなんだって。ハルトに持っていて欲しいって。」
「そ、そんな大切なもの、貰えません!」
「いいから!お祝いなんだから!」
お母さんとサーマの勢いに負けて受け取り、腕に嵌める。青い石の並んだ、金色の、所謂バングルってやつ。
ワインを次々に飲んで、皆どんちゃん騒ぎ。
カリームを見ると、にこにことこちらを見ている。
「ほ、んとに、結婚するの?俺で、良いの?」
カリームは、俺の肩を抱いて、耳元で囁いた。
「サクラさん以外に、こんなに素敵な人、いませんよ。」
吸い込まれそうな青い瞳に、ああ、俺は心底カリームの事が好きなんだ、と自覚した。
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