*5*


瑠璃は、黒曜が苦手である。

消極的な瑠璃は、物事をはっきりと言う黒曜のことが羨ましい反面、そのきつい物言いに毎日びくびくしていた。

黒曜は、漆黒の長い髪を一つに結き、まるで烏の尾の様にそれを揺らして歩く。瑠璃も黒い髪だが、黒曜とは違い短く、くるりと巻かれた髪をしている。黒曜ほど美しくもなく、しかしそれがかえって黒髪、と言う共通点から比べられているのではないかと心配になるのであった。

黒曜は黒曜で、自分の意見を言わずにいつも人の影に隠れる瑠璃が、腹立たしく、いつの日かがつんと言ってやろうと思ってはいたが、黒曜の顔を見るとそそくさと逃げる瑠璃に、言いたい事も言えず、鬱憤は溜まるばかりであった。

そんな二人が同じ仕事を二人きりでするとなると、大変な事だ。

金に言いつけられ、黒曜と瑠璃は絨毯の取り替えに専念していた。

力のある黒曜と、細かいところに気が付く瑠璃には、重い絨毯を運ぶのと、穴が空いていないかを確かめるのは適任だったのだ。

しかし、細かく絨毯の模様一つ一つを見ながら、毛羽立つ部分をブラシで撫でたり、穴の空いた部分を確認する瑠璃を苛立ちながら見ていた黒曜は、こんなものは洗えば同じだと言い張り、ぐるぐると適当に纏めてしまった。

その様子をじっと見ていた瑠璃に、黒曜は、何か言いたい事があるか、と問えば、別に、と返ってくる。両手で抱えていた絨毯を床に放り投げ、黒曜は怒りを露わにした。

「お前、本当にそう言う所が腹が立つんだよ!気に食わない事があるなら、はっきり言えよ!」

大きな声が、廊下に響く。低い声が腹の底に響き渡り、瑠璃は萎縮してしまう。

何も言わずに震える瑠璃を見て、黒曜は頭から湯気が出そうになるのを必死に堪えながら、投げた絨毯を拾い上げ、洗濯へ向かう。それにぴょこぴょこと付いてくる瑠璃を睨みつけると、一瞬硬直したが、金様と銀様が一緒にやれって言ったから、と後ろを歩くのをやめなかった。

大きな桶に水を汲み、石鹸を泡立て絨毯を洗う。黒ずんだ汚れがみるみるうちに水を濁していく。まるで自分と瑠璃の関係のようだな、と黒曜は黒くなった泡だらけの手をじっと見詰めた。

「僕はさ、」

水を継ぎ足しながら、瑠璃は小さな声で呟いた。

「僕は、君が羨ましいよ。」

何が、と問えば、全部がさ、と応える瑠璃に、やはりこいつの事は分からんと黒曜は洗濯の手を止めない。

「綺麗な黒い髪に、物怖じしない性格も。全部、僕には無いものだもの。」

「お前だって、黒いだろ。髪。」

「君の様な綺麗な髪ではないもの。」

見て、と自分の髪を日に当てる瑠璃。その様子をじっと見ていると、煌めく髪をはあと溜息を吐きながらぐしゃぐしゃと掻く。

「君の髪みたいに、綺麗な黒じゃないんだ。なんていうか、こう、青みがかっていて、まるで黴でも生えたみたいで、嫌なんだ。」

それに、と瑠璃は付け加える。

「背中の痣だって、銀様は美しいと言ってくれたけれど、僕はどうしても好きになれない。こんな大きな痣、見られたら馬鹿にされるに決まってる。」

きっと皆気持ち悪いって言うよ、と瑠璃は再び溜息を吐いた。

他の少年たちと違って、大きな風呂に瑠璃は一人で入る。皆が入った後の湯の減った風呂に浸かるのだ。瑠璃自身、この痣さえなければ、皆と楽しく風呂にも入りたいし、着替える時に周りの目を気にして背中が見えないようにする事もなかっただろう。

瑠璃の痣は大きく、襟の隙間から首筋にちらりと見えるほどであった。しかし、それはほんの一部に過ぎず、背中全体を覆う様にあるらしい、と銀から聞いていた黒曜だったが、実際それをしっかりと見た事はなかった。

「そんなに、酷いのか。」

こくりと頷く瑠璃に、黒曜は珍しく興味を持った。

「見せろよ。」

「え?」

「痣、今なら俺以外いないんだから、脱いだって問題ないだろ。」

「でも、」

「いいから、見せろ。」

低い声で命令され、瑠璃は石鹸の付いた手を拭き、渋々シャツに手を掛ける。ゆっくりと降りていく白いシャツ、そこから現れる白い肌に、対照的な青い痣が、背中に大きく広がっていた。

首まで赤くなって、瑠璃は背中を黒曜に向ける。痣は銀に見せてもらったどこかの国の地図の様で、肩のあたりに黒子があり、それがなんとも妖しく、黒曜は思わず立ち上がって瑠璃の側に寄り、泡の付いた手でゆっくりとなぞった。びくりと反応する小さな身体。小刻みに震える肩。それに伴い背中の痣も揺れる。それが何故だかとても魅力的に思えて、黒曜の手は止まらない。石鹸で滑る掌で大胆に撫でると、瑠璃の背中に今まで感じたことのない感覚が過った。

「凄いな。」

「き、気持ち悪い、でしょ。」

「いいや。」

痣から目を離せず、魅了されている黒曜は、首筋の青いそこを思わず舐めた。驚く瑠璃を無視して、味わう様に舌で弄ぶと、口を離して息を吐く。

「綺麗だ。とても。今まで見たどんなものよりも。」

そんな事、と否定しようとする瑠璃の口を手で塞ぐと、黒曜は耳許で優しく囁いた。

「水晶や紅玉なんかより、お前の方がずっと美しいよ。」

その低い声が、瑠璃の腹の奥底にずしりと響く。下腹部がきゅうと疼き、切ない気持ちが押し寄せてきた。銀に言われた時とは違う。黒曜に、美しい、と囁かれると、瑠璃は今まで感じた事のない快感に襲われた。

「こ、くよ、う、」

ズボンを握り、倒れない様必死になりながらも、足の力が抜けていき、黒曜の胸に頭を置いた。瑠璃の目を手で覆い、耳を食む。

「知らなかった。瑠璃、お前は本当に綺麗なんだな。」

小指を瑠璃の口に入れ、その長い指で上顎を擦る。瑠璃は甘い吐息を漏らし、黒曜に身を預けた。それを良い事に、黒曜は背中を撫で、肩を甘噛み、瑠璃の痣を堪能する。

「痛いか?」

ふるふると首を横に振る瑠璃。

気持ち良いか?」

こくりと頷くと、黒曜はそうか、と短く返事をして、瑠璃の背中を触り続けた。

 

その日から瑠璃は、別の感情から黒曜を見かける度に避ける様になった。黒曜としては、やり過ぎてしまっただろうか、と頭を掻いて反省する日々であったが、瑠璃は黒曜を前ほど嫌っていた訳ではない。

寧ろ、この感情はなんなのか、知っている。

孤児院にいた頃に、面倒を見てくれた年上の少年がいた。寂しくて彼のベッドに潜り込み、抱き付くと、心臓が破裂しそうなほどに鼓動が速くなり、しかし安心して眠れた。

その感情に似ている。否、それよりも、もっと強いかもしれない。

黒曜の事を考えると、顔が火照り、身体中が痺れる感覚に陥った。彼が擦った口の中が熱を帯び、あの快感が忘れられず、口許に手をやると、低い声が頭の中で木霊する。

綺麗だ。美しい。

あんな言葉を同じ年頃の少年に言われたのは初めてで、瑠璃は胸を押さえて廊下で一人蹲った。

「大丈夫?瑠璃。」

鳥の囀りの様な声で名前を呼ばれ、顔を上げると、水晶が心配そうに覗き込んでいた。黙って頷くと、何かあったの、と問われ、瑠璃はどうしたものかと思案したが、水晶ならこの自分の想いをなんとかしてくれるかもしれない、と瑠璃は小さな声で話し出した。

「黒曜が、」

「黒曜?」

蹲る瑠璃の隣に腰掛け、瑠璃と黒曜は本当に相性が悪いなあ、などと考えていると、思いがけない言葉が飛んできた。

「黒曜を見ると、最近、すごく変な気持ちになるんだ。胸が苦しくって。彼に触れられた背中が、じくじくと疼いて堪らないんだよ。」

水晶は目をぱちくりとさせ、瑠璃を見た。その顔は耳まで赤くなっていて、これは大変な事になった、と水晶は瑠璃の背中をじっと見詰めた。

「背中の痣、黒曜が触ったんだ?」

「うん。」

「無理矢理?」

首を横に振り、はあ、と息を吐きながら自身の唇をなぞる瑠璃は、あの時の熱を思い出している様子だった。

「僕が、見せた。見たいって言うから。珍しいなって思って。そうしたら、」

ああ恥ずかしい、と瑠璃は顔を膝に埋め、隠れる様に顔を覆った。水晶はふむと顎に手を当て、瑠璃を見ながら考える。

「黒曜に触られた時、嫌だった?」

「ううん。」

顔を伏せたまま、瑠璃は応えた。

「嫌じゃ、なかった。寧ろ、もっと触ってほしいと思っちゃった。こんな僕、気持ち悪いよね。」

そんな事、と言おうとした水晶の前に、影が出来た。上を向くと、黒曜が水晶を見下ろし、次いで隣にいる瑠璃を見る。

「何やってんだ。」

低い声が、まるで水晶を責める様に少々怒りを帯びて発せられた。その声にぱっと顔を上げた瑠璃は、どうして、と小さく呟くと、赤い顔のまま黒曜を見る。

「水晶、お前、瑠璃になんか言ったのか。だから瑠璃は、ここで蹲っているのか。」

水晶は息を吐き、ズボンを払いながら立ち上がる。目線が同じ位になると、水晶は黒曜の常闇の様な瞳をじっと覗き、違うよ、と反論した。

「君のせいだよ。」

「俺の?」

「君が、瑠璃をこんな気持ちにさせちゃったんだから。責任取らなきゃね。」

「何の事だ。」

「しらばっくれたって、無駄だよ。瑠璃は苦しくて、仕方ないんだ。君のせいでね、胸が痛いんだって。」

病気か?」

ふふ、と笑う水晶。違うよ、と目から涙を零しながら言う水晶に、腹立たしさを感じながら、しかし瑠璃のいる手前あまり大きな声を出す事も出来ず、黒曜は静かに言葉を紡ぐ。

「俺のせいって、なんだ。俺は瑠璃に怪我をさせる様な事、していないぞ。」

「そう言う痛い、じゃあないんだよ。」

鈍感だね、と言い残し、あとは二人でゆっくりお話してね、と水晶は廊下の奥へと走っていった。

何なんだ、と黒曜は頭を掻き水晶の背中を見送ると、大丈夫か、と瑠璃に向き直る。頷く瑠璃の顔を覗くと、吸い込まれそうな黒い瞳が眼前にあり、瑠璃は慌てて顔を逸らすが、黒曜は瑠璃の頭をがしがしと撫で、何かあるならはっきり言えよ、と普段よりも少し柔らかい声で言った。

気まずい沈黙が流れ、黒曜はその場を去ろうとすると、くいとシャツを引っ張られる。見ると瑠璃が、その小さな手で黒曜を引き留めていた。

「黒曜、あのね、僕、」

俯き、耳まで赤くなりながら、黒曜を呼ぶ。何事かと足を止め、次の言葉を待つが、なかなか言い出さない瑠璃にだんだん苛立ちを覚えるが、ここで怒ってしまっては瑠璃がまた萎縮してしまう、とぐっと堪えた。

「俺、やっぱりやりすぎたか?」

黙っている瑠璃に痺れを切らし、黒曜が尋ねると、瑠璃は顔を上げ、背伸びをし、黒曜の唇に自身の唇を重ねた。軽く触れる程度であったが、黒曜は大層驚いて、後退りをする。

「何、」

「黒曜、僕の事あんまり好きじゃないのは知ってるけど、僕は、黒曜の事好きだから。」

黒曜のシャツを握る手に、力が入る。瑠璃は震える唇を開き、もう一度「好きだよ。」と呟いた。

そんな瑠璃を見て、黒曜は困り果て、眉根を顰める。瑠璃が嫌いな訳ではない。おどおどした性格に苛立つ事もあるが、瑠璃自身は働き者だし、周りをよく見ていて、黒曜には無い細かい所に気が付く気遣いの出来る少年だ、と感心していたが、それは黒曜にとって自分が面倒見るべき年下の少年である、と言う意識は変わらなかった。確かに、痣に魅了され、触りすぎてしまったな、と反省はしているが、それによって瑠璃が自分にここまでの好意を寄せるなどとは到底考えもしなかったのだ。

「瑠璃、あのな、」

名前を呼ぶと、潤んだ濃紺の瞳で黒曜を見詰めるその顔は、何とも愛らしく、そして色っぽくもあり、何故だか黒曜はこの時瑠璃に「自分はそう言う気持ちではない」と言うのを伝えようとした筈なのに、言葉が出ず、代わりに瑠璃の痣が覗く首筋に口付けていた。はあ、と息を吐いてから、黒曜は先ほどまで自分の考えていた野暮な事は捨て、今の気持ちを話し出した。

「好きとか、そう言うのは俺にはよく分からないけど、瑠璃の事は綺麗だと思う。それが恋とか愛とか聞かれたら、肯定できる自信はないけど、それでも良ければ、また一緒に洗濯したり、庭掃除をしたりしよう。」

瑠璃はこくりと頷くと、肩にある黒曜の髪をさらりと撫でた。美しい、漆黒の髪。

「風呂にも、いつか一緒に入りたいな。」

その言葉に真っ赤になる瑠璃をよそに、黒曜は暫くの間、瑠璃の痣を優しく舐め、堪能したのであった。