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昼間の水晶の唇の感触が忘れられず、眠れぬ琥珀は水でも飲もうとベッドの傍らの水飲みに手を掛けたが、空っぽで、仕方なく暗い屋敷内を歩いて台所へと向かった。

月明かりが窓から差し込み、廊下を照らす。花模様の絨毯は、銀が選んだものだと聞いた。あの方は美しいものが好きなのだな、と琥珀は思うが、では何故自分なんかを引き取ったのだろうと疑問が湧く。しかし、出逢った時のあの言葉、瞳が琥珀の様に美しいという銀の言葉を思い出し、ふと立ち止まって壁にある小さな飾り鏡に自分を映した。

自分で見ても、ありきたりなただの茶色い瞳にしか見えない。琥珀には、白目に一つ、黒子がある。それが自身はあまり好きではなかった。しかし、銀が美しいと言ってくれたこの瞳を好きになるべきではないだろうか、と鏡の自分に問い掛ける。折角美しいと言ってくれたのだ。それを否定するのは、引き取ってくれた銀に悪い気がした。

そういえば、水晶も僕を綺麗と言ってくれたな、と忘れていた唇の熱が再び戻ってくる。はあ、と息を吐けば、それは甘いものとなって吐き出る。

口付けなど、初めてされた琥珀は、水晶のあの柔らかな弾力ある感触が忘れられなかった。美しい少年の、人たらしめる触り心地に、ああやはり水晶も人間であったと唇をなぞりながら彼のあの優しい笑顔と、頬を撫ぜた白く長い指を頭に浮かばせる。

何故僕なんか、と思うのはやめよう。自分を好いてくれている人に、失礼だ。そう決心した琥珀は、月に照らされたそばかすのある鼻をぐしぐしと擦り、このそばかすだって自分の一部だ、と言い聞かせ、己が今まで嫌いだった容姿を好きになる努力をする事を心に決めた。

 

台所は屋敷の奥にあり、月の光も届かない為、大変暗い。蝋燭をつけるのも勿体無いかと思い、琥珀は暗い中、輪郭線だけを頼りに水を探す。

その時、ごそごそと動く何かが、棚を漁っている事に気付いた。

恐ろしくなって悲鳴をあげそうになったが、もしも泥棒ならば逃げられてしまう。琥珀はそっとその背後に近寄り、渾身の力を込めて、背中に抱き付き捕まえた。驚いた影はじたばたと動き、しかし琥珀は何とか逃げないように腕を回す。琥珀の腕にすっぽりと収まってしまうそれにはっとして、ちらりと見ると、目を丸くして必死に抵抗する紅玉であった。

「離せ!離せ!」

そう叫びながら暴れる紅玉。琥珀は腕の力を弱め、紅玉を解放した。はあはあと肩で息をして、その場に座り込む紅玉を見て、どうしたの、なんでこんな時間に、何をしていたの、等言いたい事は溢れてきたが、何から聞けば良いのか分からなかった。

紅玉の寝巻きは、菓子の食べかすだらけ。

幻滅したか?」

顔を上げ、琥珀を睨みつける紅玉は、昼間の強気な態度とは一変、見られた事を後悔している様で、悲しげだった。

琥珀は首を横に振り、大丈夫だよ、と応えるが、紅玉は誰にも言うなよ、と釘を刺す。

「隠れてお菓子を食べてたの?」

なんでそんな事、と問えば、腹が減って仕方がないんだ、と。

「夕飯、足りなかった?」

紅玉は、夕食をあまり食べない。黒曜よりも二つ下だが、それにしたって他の少年と比べても、食事の量はとても少ない。赤い口を小さく開けて、一口を味わって食べるその上品さを決して崩さない。しかし、今の紅玉の姿は、食べ物を食い散らかす獣の様だ。

「僕が大口開けて食べてる姿なんか見てみろ。金様も銀様も、幻滅するに決まってる。」

「だからって、隠れてこんな夜中に食べる方が、よくないよ。」

「分かってる!分かってるけど、腹が減るんだよ!」

紅玉は、唇だけでなく容姿全てが美しい。赤毛も、彼の強みだ。唇の色とよく合っている。目は大きく睫毛は長く、小さな鼻も筋の通った綺麗な形をしている。紅玉自身、自分は水晶に負けず劣らずの美少年だと思っている。そのせいだろう。美しさを極める余り、人前ではそれを崩さない立ち振る舞いで食欲を抑え込んでいるのだ。

琥珀は紅玉の隣に座り、食べかすだらけの寝巻きを払ってやった。

金様も銀様も、そんな事で君を嫌いにならないよ。」

「君は、知らないからそんな事を言えるんだ。」

はあ、と息を吐き、紅玉は上を向いて話し出した。

「銀様が、孤児院で僕を見た途端、何と言ったと思う?絶世の美少年、アテナもヤキモチを妬くほどの美しさだ、って。」

「確かに君は綺麗だけど、食べたいものを我慢するなんて、」

「美少年は、大喰らいじゃ駄目なんだよ!いつも清楚に、笑う時は口に手を当てて、食べる時はほんの少しの食事。そうじゃなきゃ、銀様の思い描いた紅玉が、崩れてしまうだろ!」

膝を丸め、顔を伏せる。嫌われたくない、そう呟いた。

初めて見た、紅玉の一面。苦労。水晶に嫉妬していたのは、美しさだけではない。水晶は何をしても銀のお気に入りに変わりはない。それを超えるには、紅玉は銀の描いている美少年を演じなければならない。どんなにたくさん食べても、大きな口を開けて笑っても美しい水晶と、演じなければ美しさを保てない紅玉。方便や悪口は、その不満を発散させるものだったのだ。

紅玉の隠していた一面を知り、こんなにも美しい少年でさえも自分に自信がないのかと琥珀は紅玉の頭を撫でた。何を、とその手を振り払おうとした紅玉は、琥珀の顔を見て固まった。

同情ではない。その瞳は、まるで紅玉の今までの努力を讃えるように、薄く輝いていた。

そばかすだらけの顔に反した、美しい茶色の瞳に、紅玉は目を奪われる。瞳と言えば、翡翠や瑪瑙の方が綺麗な硝子の様だと言うのに、ありきたりな茶色い瞳は、それよりも美しく感じる。

ああ、そうか。と紅玉は納得した。銀が美しいと言った瞳は、これか、と。

年に似合わず、少々憂いを帯びたその瞳は、普通の少年が持ち得ないものであった。琥珀は恐らく、ただの子供ではない。その美しさの裏に、何を潜めているのか分からない紅玉は、背中にぶわりと汗が吹き出すのを感じた。

水晶や、自分よりも美しいもの、それが何かは分からないが、琥珀はそれを持っている。それは、自分達には決して手に入らないもの。

紅玉?」

名を呼ばれ、はっとする。慌てて目を逸らした。全てを見透かされるような気がしたから。

「こ、んなみっともない僕の事、皆に言うか?」

「言わないよ。」

紅玉の隣に座り直し、琥珀は天窓から覗く星を見る。

「言わない。」

そうか、と短く返事をした紅玉は、この得体の知れない少年だけは絶対に敵に回してはいけないな、と思った。

 

「紅玉、今日はよく食べるねえ。」

夕食を大きな口で掻き込む紅玉を見て、銀はふふと笑う。紅玉は頬袋でもあるかの様にそこを膨らませ、食べ物をどんどん詰め込む。栗鼠みたいだ、と銀が言うと、こんな僕はお嫌いですか?と紅玉は尋ねた。

「いいや。」

鶏肉を口に運びながら、銀は応える。

「少年らしくて、とてもいい。愛らしくて、僕は好きだよ。」

へへへと笑う紅玉は、以前よりも年相応の振る舞いをするようになった。減らず口は相変わらずだが、どこか素直になった。

「男なら、たくさん食べろ。力になる。」

金は自分の分の肉を紅玉に分けてやる。紅玉は琥珀をちらりと見ると、琥珀は声を出さずに口を動かした。よかったね、と。

自分を繕うことは簡単だ。しかし、素直になるのは勇気がいる。肉に添えられた人参を避ける銀と、それを無理やり食べさせようとする金を見て、この二人になら本当の自分を見せてもいいのかもしれない、と琥珀は思った。