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屋敷内は、朝から大騒ぎであった。

金が街の本屋に行くと言うので、欲しい物を頼んだ銀は、分からないからお前も来い、と言われてしまったのだ。

人の多い場所が苦手な銀は、水晶に抱き付いていやいやと首を横に振る。

「どうして僕が行かなきゃいけないのさ!」

「俺は本は分からん。それも外国の本なんて、俺にはどれも同じに見える。お前がいなきゃ、買えないだろう。」

異国の言語にも強い銀とは対照的に、金は母国の言葉でさえ危ういほどに文字には強くない。銀に頼まれたのは、外国語で書かれた本だ。そんなもの、金に分かる筈もない。金の言う事はもっともだと言うのに、銀は水晶から離れない。

目の前で大袈裟に泣いている銀を見下ろしながら、これは良い機会ではないだろうかと水晶は思った。

「銀様。」

銀の涙を優しく拭いながら、水晶は銀の頬を撫でた。

「たまには外に出ませんと、お身体にも良くありません。お医者様にも日光に当たる様にと言われております。」

その言葉に、がくりと膝を落として頭を抱えた銀は、水晶が優しくない、と喚いて再び泣き出した。

金は深い溜息を吐き、いい加減にしろ、と銀の首根っこを掴んで馬車まで引き摺って行った。

「美味しい夕食を作っておきますから!」

馬車を見送りながら、水晶がそう叫ぶと、小窓から銀が名残惜しそうに見詰めていた。

 

見送りを終えた水晶は、一目散に台所へと向かった。そろそろ、少年達が昼の準備をしだす頃だ。少しはお喋り出来るだろうか。

台所に入ると、鍋の前に瑠璃が立っていた。後ろ姿で分かる。シャツから透けて見える、大きな背中の痣。銀はそれが美しいと言って、彼を引き取ったのだ。生まれながらにあるものだそうだが、瑠璃は痣の事を言われるのが嫌いなので、なるべく触れない。銀にいくら美しいと言われても、瑠璃は消極的な性格なので、あまり目立ちたくないようだ。

「瑠璃。」

背後から声を掛けると、びくりと肩を震わせて、振り向いた。水晶はとびきりの笑顔で瑠璃に近寄り、鍋を覗き込む。

「今日は、人参のスープ?」

「銀様が留守だからこんな時くらいしか食べられないし。」

銀は人参が嫌いである為、人参のスープは滅多に作る事はない。しかし、瑠璃はこのスープが得意である。以前水晶が食べた時、頬が落ちるかと思ったくらいには絶品だった。

「水晶、一緒に行かなかったの?」

鍋を掻き混ぜながら、瑠璃が尋ねると、水晶はまな板に残っていた生の人参をひとかけ口に含み、こくりと頷く。

「僕がいたら、嫌かな?」

瑠璃はふるふると頭を振り、そんな事ないよ、と否定する。

「僕は、水晶の事、結構好きだから。」

嬉しいな、と笑う瑠璃は、大層愛らしく、水晶にとって瑠璃は数少ない心を許せる仲であった。しかし、友と呼ぶにはどこか壁があり、どちらかというと瑠璃は水晶を兄として慕っている様な気がした。その為、水晶は瑠璃に弱い所は見せない。頼りになる兄の立ち位置を守っている。

消極的な瑠璃にとっては、物言いのきつい黒曜よりも、物腰の柔らかな水晶の方が親しみやすいのであろう。

「他の皆は、何処かな?」

水晶に問われ、辺りを見回す瑠璃は、多分外の掃除か、庭の草木の手入れじゃないかな、と応えた。

「お昼までは、皆それぞれの仕事をしているから。」

有難う、と瑠璃に礼を述べ、水晶は庭へ走っていった。

 

広い庭には、大きな木と沢山の花が植えられている。木の手入れをするのは、他でもない黒曜だ。梯子を掛け、高い所の枝を剪定している所へ、水晶の声が聞こえた。

「何だよ、お姫様。」

ぶっきらぼうにそう返事をする黒曜は、目線は枝のまま、声だけで応える。

「僕も、手伝うよ。」

「その白魚の手が、傷だらけになっちまうぞ。」

「そんな事言ったら、可哀想だよ。黒曜。」

花の手入れをしていた紅玉が、二人の元に近寄ってきた。手に付いた土を払いながら、水晶を見てにたりと笑う。その真っ赤な唇は、水晶を小馬鹿にしている様に三日月に形を変える。

「水晶だって、皆と仲良くしたいんだよ。いつも銀様に猫可愛がりされてるからさ。銀様がいないと、寂しいんじゃない?」

そんな事は、と言い掛け、やめた。紅玉には、何を言っても揚げ足を取られるだけだと水晶はよく知っている。

黒曜は、そんな紅玉の底意地の悪さを知ってはいたが、年上とは言え口で紅玉に敵う者などいないので、黙って枝を切る。ここで黒曜がやめろと言えば紅玉は聞くだろうが、後から何を言われるか分からない。変な方便で噂されても困る。

黒曜自身、水晶をそこまで嫌っている訳ではない。紅玉よりも美しいと思う。しかし、水晶に味方をすれば、ここでは、特に少年達の中ではやり辛くなる。兄貴分としての自分の位置に満足している分、この地位を落としたくはない。水晶には悪いが、黒曜はあまり関わりたくないのだ。

水晶は少し頬を膨らませ、自分よりも背の低い年下の紅玉を見下ろした。

「紅玉は、意地悪だね。」

「そんな事ないよ。僕は君を思って言っているんだ。」

「それなら、仲良くしようよ。」

「君の様な雲上人が、僕らみたいなただの下男と仲良くするのかい?可笑しな話だね。」

くつくつと笑う紅玉は、本当に憎らしい。第一、金と銀は少年達を下男として引き取った訳ではない。家の仕事は二人が年老いたから頼んでいるのであって、強制でもないし、二人にとって少年達は実子と変わらない。それほど愛情を注いでいる。誕生日にはそれぞれを祝うし、同じ食卓を囲む。部屋も一人部屋を与えている。

しかし、紅玉は水晶が妬ましくて仕方ないのだ。水晶だけ特別だと感じている。実際の所、銀が連れ回すことが多いだけで、部屋も服も皆と同じだと言うのに。

梯子の上からはあと深い溜息を吐いた黒曜は、水晶に言った。

「兎に角、ここにはお前の仕事はないから。他所を当たりな。」

黒曜なりに気を使ってそう言ってくれたのだろう。これ以上紅玉といれば、水晶の悪口で溢れかえってしまう。翡翠と瑪瑙が窓を拭いているぞ、と教え、そちらへと促した。

 

屋敷の裏へ回ると、背の低い翡翠と瑪瑙が二人揃って背伸びをして、大きな窓を拭いていた。

少年達の中でも最年少である二人は、踏み台でも持ってくれば良いものを、そこまで頭が回らなかったのだろう。上の方を拭くのにはどうしたらと考えた末に、肩車をしようとしていた。そんな二人に声をかけると、下になっていた翡翠が驚いた拍子に、上に乗っていた瑪瑙が頭から落ちてしまった。幸い、下は芝生だったので瑪瑙は大きな瘤を作るに留まったが、驚かさないでよ、と胸を押さえて翡翠は水晶に言った。

「ごめんね。」

瑪瑙の瘤を持ってきた氷嚢で冷やしながら、水晶は謝った。瑪瑙は光の当たりによってころころと変わる目の色同様、痛がったり驚いたりと表情を変え、水晶を見た。水晶がわざわざ屋敷の裏まで来る事が、珍しかったからである。それも、自分の様な年下の少年にこんなに優しいとは、瑪瑙は今まで水晶とあまり関わってこなかったせいか、知らなかった。

紅玉から聞いていた話をすっかり信じ込んでいた瑪瑙は、水晶は恐ろしい少年だと思っていたのだ。

瑪瑙は、琥珀の前に来た子供だ。その為、琥珀ほどではないが、ここで過ごしている時間はまだ短い。親に見世物小屋に身売りされそうだった所を金が引き止め、買い取った。瞳の色が銀の好みであろうと踏んだ金の気回しによって、救われた一人だ。

瑪瑙の色は、大層美しい。美を集約した水晶でさえも、目を奪われるその虹彩は、陽の光の加減で色や模様が変わる。見た目は小さな子供だが、愛らしくもあり、将来が楽しみだ、と金は瑪瑙のふわふわの髪をぽんと叩いて額にキスをしてくれる。小さいながらも根気強く、弱いながらも涙を堪える様をよく見掛けていた金は、暇があれば瑪瑙と外遊びをしてやるほどには可愛がっていた。

皆が銀のお気に入りは水晶だと言うならば、金のお気に入りは瑪瑙であろう。ただし、金は誰かを特別扱いしている気は毛頭無く、少年全員に平等に無償の愛を注いでいる。瑪瑙はまだ幼く、その上実の親に売られる様を見てしまった為、育ての親として、なるべく瑪瑙の事を注意深く見ているだけなのであろう。

瑪瑙に嫉妬する者はいない。寧ろ、その幼さ故、紅玉も可愛がっている。時折怪談話をして脅かす様な事はするが、それは冗談の範囲内であって、水晶にする様な意地悪いものではない。

一つ上の翡翠と瑪瑙は、よく一緒にされる事も多い。翡翠は美しい緑の瞳を持っている。瞳、と言う共通点からも、そのふわふわした猫っ毛の金髪からも、まるで兄弟に見えるのだろう。

目の色が特徴的な人形を金と街に言った際に見掛けたな、と水晶は思い出す。二人にそっくりだった。

何か用事だった?と翡翠は水晶の顔を覗き込む。気付いた水晶は、そうそう、と話を切り出す。

「僕も、仕事したいんだ。やる事あるかな?」

翡翠はうんうん唸り、ここは僕らでやってるしなあと周りを見る。芝生は昨日刈ったばかりで綺麗だ。窓は、今拭いている大きなもので仕舞いである。

「そういえば、琥珀が屋根に上ってたよ。塗装が剥げている所があるから、塗り直すって。」

それを手伝ったら?と言いながら、翡翠は氷嚢がずれて落ちそうになっている瑪瑙の頭を押さえた。

有難う、と礼を言って立ち去る際、水晶は二人に、物置に踏み台があるよ、と教えてやった。

 

「動くなよ、じっとしていろ。」

煙突に乗っていた鳥の巣を移動させようと、琥珀は慎重にそれを動かしていた。今はまだ使われない暖炉も、もうじき冬が来れば熱くなる。鳥が死んでは可哀想だ。雛鳥はぴいぴいと鳴き、親鳥は琥珀の巻毛を突く。

「助けてやるんだって、落ち着け。」

親鳥を諭しながら、琥珀は屋根にそっと巣を置いた。さて、これをどうしようか。あまり低い所に置くと、猫に狙われてしまう。

そんな事を考えている時だったので、突然声を掛けられ、驚いて屋根から滑り落ちそうになってしまった。

「ご、ごめんね。」

振り返ると、白銀の水晶が、梯子を上って屋根に来ていた。そんな華奢な身体で屋根までくる体力があるとは、人は見かけによらないものだな、と琥珀は水晶の細い腕を見る。

「金様と銀様は出掛けたんだ。昼までまだ時間があるし、僕も皆みたいに仕事したいなって、思って。」

初めて聞いた水晶の声は、思ったよりも低く、しかし澄んだ風の音の様な綺麗な声だった。

以前よりも近くで見る水晶は、本当に美しく、屋根にいるせいもあるのか、天から舞い降りた天使だ、と琥珀は目が離せなかった。

「え、と、琥珀だよね?」

名前を呼ばれ、ふと我に返る。首を縦に振り、君は水晶?と尋ねると、水晶はにっこり笑って、僕を知ってくれていたんだね、嬉しいな、と琥珀に近寄った。

「君は、銀様のお気に入りだって聞いたか、ら、」

水晶の顔が近付くと、琥珀はその美しさに眩暈がするほど恥ずかしくなって、直視できずに目を逸らした。その目を水晶は追い、琥珀に自分を見る様に促した。

「どうして、僕を見ないの?」

青い瞳でそう尋ねる水晶の顔は、白く輝いている。見ない訳じゃ、と口籠る琥珀に、じゃあ目を逸らさないで、と水晶は琥珀の頬を両手で挟んで、真っ直ぐに目を合わせた。

水晶の青い瞳に映ったそばかすだらけの、茶色い癖毛の自分。その姿があまりにも醜く感じ、再び目を逸らそうとするが、水晶はそれを許さなかった。

「僕の瞳に、誰が映ってる?」

言いたくない。」

「綺麗な人が映ってるよ。ねえ、ちゃんと見て。」

どこが綺麗か。水晶と違い日に焼け、決して美少年とは言い難い自分の姿がこの天使の瞳に映っているなどと言う現実は、見たくはなかった。

「琥珀は、綺麗だね。」

どこが、と問えば、茶色い瞳がきらきらしてる、それにそのそばかすも可愛いよ、などと口説き始めるものだから、琥珀は眉根を寄せて、君は目が悪いんじゃないの、と文句を言う。

「僕はとっても目が良いんだ。君のそばかすの数も、ちゃんと分かるよ。」

そう言ったかと思うと、突然そのそばかす一つ一つに口付けてきた。何が起こったか分からず呆然とし、されるがままの琥珀。何度か口付けされ、顔を離して水晶はにこりと笑う。

「十七個。」

「え、」

「十七個の、可愛いそばかすだ。」

どうやら水晶は、琥珀のそばかすの数を数えるために口付けたらしい。へたりと力が抜け、その場から動けない琥珀は、立ち上がる水晶を見上げ、光で煌めく白銀の髪をぼうっと見詰めた。

「ねえ琥珀。」

水晶は、琥珀の顔を見て、尋ねる。

「何か、僕にも出来る仕事、ここにあるかな?」

はっとした琥珀は、側に置いていた鳥の巣を手に取った。

「これを移動させたいんだけど、何処が良いか分からなくて。」

それを聞くと、水晶は任せて!と元気よく鳥の巣を持って、屋根から横に生えている大きな木に飛び移った。一瞬ひやりとした琥珀だったが、水晶のその軽い身のこなしに大層驚き、こんなに細く白い少年の何処にそんな体力があるのだろうと疑問に思ってしまった。

木に移動した水晶は、どんどん上へとよじ登り、適当な場所を見付けると、そっと巣をそこへ置いた。ぴいぴいと鳴く雛鳥と、周りを旋回する親鳥が、あたかも水晶に礼を述べている様で、琥珀はその美しい少年の姿に、孤児院にいた頃に読んだ動物と話が出来る男の子の物語を思い出した。今の水晶の姿は、まさにそれだった。

木から屋根へと戻ってきた水晶に、琥珀は凄いね、と感嘆の声を上げると、水晶はへへと照れ臭そうに笑って、本当は僕もこれくらい出来るんだよ、と屋根の上を飛び跳ねた。

「皆、僕は籠の鳥だと思っているけど、僕だって男だもの。木登りも力仕事も、好きだよ。」

意外な言葉に琥珀は驚いた。今にも消えてしまいそうな儚い印象とは打って変わって、水晶も普通の少年であった事に。

「他には、何かある?」

そう問われ、琥珀は屋根をペンキで塗り直していた事を思い出す。僕にもやらせて、と水晶は汚れるのもお構いなしに、赤いペンキで剥げた屋根を塗り始めた。それが大層楽しそうで、つられて琥珀もなんだか楽しくなり、ふふと笑うと、何がおかしいの、と水晶が聞いてくるものだから、君といるのが楽しいのさ、と琥珀が応えると、その言葉に水晶は少し頬を赤らめて、有難う、と呟いた。

「何故お礼なんて言うの。」

「だって、僕といて楽しいなんて、初めて言われたから。」

ああ、そうか。この少年は、本当は皆と仲良くしたいのか。琥珀は汚れた手を顎に当て、暫し考え、じゃあ皆にもっと水晶の事を知ってもらおうよ、と提案した。

「知ってもらって、どうするの?」

「君も皆と変わらない、普通の子供だって知ったら、皆も君と仲良くなりたくなるよ。」

その言葉に、水晶は琥珀を見詰め、小さな声で言った。

それは、」

「うん?」

「それは、君は今僕と仲良くなりたいって意味?」

赤いペンキのついた顔で、琥珀を見るその顔は、嬉しそうに口角を上げ、溢れ出る喜びを隠す様に唇が震えていた。

「そりゃあ、あんな格好良い所を見たら、僕は君ともっと仲良くなって、遊んだりおしゃべりしたいと思うよ。」

素直な琥珀の言葉に、水晶は下を向き、ふるふると震え出す。どうしたの、と心配そうに琥珀が覗くと、突然顔を上げ、ふわりと琥珀の唇に口付けた。何が起こったのか分からず呆然とする琥珀の頬を優しく撫で、水晶は笑顔で言う。

「君は、僕の最初の友達だ。」

はっとした琥珀は、口付けられた事に驚き、よろめいて、屋根から落ちそうになるのを何とか耐え、友達にこんな事するの、と言うと、分からないけど僕がしたかったから、と応える水晶に、そんなものだろうかと納得するしかなかった。