桃瀬くんと灰島さん
【思い出アップルパイ】
俺の髪をサラリと撫でて、灰島さんは言う。
「桃瀬くんの髪は、綺麗だね。」
ブリーチで傷んだピンクの髪を、灰島さんは好きだと言ってくれる。それが嬉しくて、誇らしくなるんだ。
「灰島さんは、明るくしないの?」
「似合わないからなあ。」
昔金髪にしたよ、と答える灰島さんの髪は、今は暗めの茶色だ。不評だったから、と言うけれど、若い頃の灰島さんを想像して、きっと可愛いかったんだろうな、と思った。
耳もいっぱい開いてるなあ、と俺のピアスだらけの耳を優しく触ってくるものだから、くすぐったい反面、それが前戯みたいでなんだかムラムラしちゃって、灰島さんにそっとキスをする。舌を入れると、びくりと肩が震えて、シーツをぎゅっと握る灰島さんが可愛くて、意地悪したくなってしまう。
「ピアス、開ける?」
ふるふると首を横に振る。
「痛いのは、嫌だよ。」
「俺とお揃いのピアス、しようよ。」
俺としては、可愛い灰島さんを「俺のもの」だと主張したくて堪らないので、本当はピアスをしてほしい。他の誰にも取られないように。
「この間、見下しネコのピアスが売ってたなあ。」
なんて誘ってみると、少し瞳が揺らいだけれど、ふいと顔を逸らして、やっぱりやだ、なんて枕に顔を埋めて言う。ああ、もう。本当に可愛い。
灰島さんの頭を撫でて、もう一度キスをしようとした時、灰島さんの携帯が鳴った。テーブルに置いてあるそれを慌てて取りに行った灰島さんの裸の後ろ姿を見て、まあ今はあのキスマークだけで勘弁してあげようか、と言う結論に至った。
静かに話している灰島さんの邪魔をしないように、水を飲んで、そっと背後に近寄る。今夜はもう一回くらい、出来るかな。なんてちょっと性欲旺盛なことを考えて、首筋にキスをする。
振り向かない灰島さんは、電話を切ると、小さな声で呟いた。
「父が、倒れたって。」
「…え?」
尚も真っ直ぐに前を見る灰島さんが、今どんな顔をしているのか、俺には分からなかった。
灰島さんの実家は、片道二時間ほどかかる田舎だった。「一人で行くから」と言う灰島さんに、「絶対ついて行く」と聞かない俺の攻防戦の末、灰島さんが折れた。一泊だから荷物は少なめ。電車に揺られている中、大事ではない事、でも灰島さんのお父さんには心臓の持病がある事を聞かされた。
「昔から薬を飲んでたから。命に別状はないけど、今回は急に倒れたから、母もびっくりしたみたい。」
本当に、それは「大したことではない」のだろうか。灰島さんの歳なら、きっとお父さんもそれなりに年配だろう。他に兄弟はいないらしく、一人息子に電話したらしい。
「家出同然で飛び出してきて、十年近く会ってなかったから、どんな顔して会えば良いのかな。」
不安そうに瞳を揺らす灰島さんの隣で、そっと手を握ると、強く握り返してくれた。
灰島さんの実家に行く前に、お父さんのいる病院へ向かった。大きな総合病院の、三階。四人部屋の窓際に、灰島さんのお父さんは身体を起こしてベッドに座っていた。灰島さんの顔を見ると、何で来た、と低い声で言ったけれど、母さんが電話くれたんだよ、と灰島さんは落ち着いて話しながら、横にある花瓶の花を直した。
「久しぶり。元気…じゃないよね。顔、見せなくてごめん。」
「お前が心配するほど、大層な事じゃないぞ。」
「でも、心配だったから。」
ふん、とベッドに潜り込んで、顔を逸らすお父さんは、怒っていると言うよりも、拗ねているように見えた。
「…そっちの若いのは、誰だ。」
「桃瀬くん。俺の、恋人だよ。」
その言葉を聞いて、俺の顔をちらりと見たお父さんに頭を下げると、なんて頭だ、と呟いて、またそっぽを向かれてしまった。髪、染めてくればよかったかな。
「花瓶の水、取り替えてくるよ。」
そう言って席を立とうとする灰島さんに、俺がやるよ、と言うと、灰島さんはこっそり耳打ちした。
「ちょっと、気分変えたいから。」
仕方なく、残された俺はサイドボードに置かれた空のペットボトルを片付ける。ふと、そこに写真が飾られている事に気が付いた。
小さな、男の子。笑顔で手を振っている。多分、灰島さんの子供の頃の写真。
じっと見ていると、それに気付いたお父さんは慌てて写真を倒して、俺を見た。やばい、なんか言われちゃうかな。怖そうな、いかにも頑固親父って感じだもんな。
「…冬彦とは、」
ぽつりと小さな声で、俺に話し掛けてきた。思いの外、優しい喋り方で。
「どれくらいなんだ。」
「一年くらいです。」
そうか、と俺の顔をまじまじと見る。
「随分若い男と付き合ってるんだな、あいつは。」
「七歳しか変わりません。俺、二十歳ですから。」
それを聞いて、少し頬が緩んだお父さんは、なんだかホッとした様子だった。
「君にとって、七歳はそれくらいの差か。」
「年齢を気にした事は、無いんです。灰島さんはよく気にしてるけど、俺としては、そんなの関係ないと思っています。灰島さんがいくつでも、俺はきっと好きになってました。」
それくらい魅力的な人です、と言うと、君は出来た子だな、と褒めてくれた。
「あいつが、高校生の時だったな。家を出たのは。男に身体を売っている事が分かってな。…男が好きな事に、怒った訳じゃあない。自分の身体を安売りしている事に、怒ったんだ。だがあいつは、恐らくそうは思っていない。理解のない父親、と思われているだろう。そう思われても仕方のない怒鳴り方をしてしまった。」
大学に行かせてやりたかった、と小さく言うお父さんに、なんて言ったら良いか分からない俺は、それでも兎に角この空気を変えたくて、なるべく明るく話した。
「灰島さん、今カフェやってるんですよ。めちゃくちゃ美味いコーヒーとケーキを出す店。最高の店なんです。」
その言葉に、お父さんの目が大きく開いた。
「冬彦は、ケーキなんて焼けるのか。」
「はい。日替わりでいろんなケーキ出してて。とても素人とは思えない味なんです。この間は、フルーツタルトを作ってて。それがまた美味くて。いろんな果物が乗ってたんですけど、中でも林檎を甘く煮たやつが…、」
「コンポート。」
え、とお父さんの顔を見ると、上を向いて何かを思い出している様子だった。
「冬彦が小さい頃、近所の農家に林檎をたくさん貰ってな。そのままだと飽きてしまって。冬彦と二人で母さんの料理の本を開いて、コンポートを作ったんだよ。パンに乗せて食べて。美味かったな。」
母さんを驚かせたくてな、と笑うお父さんの顔は、灰島さんに少し似ていた。
灰島さんの実家は、思っていたものとは大分違った。立派な日本家屋。広い庭。なんでこんなに大きい家なの、と聞けば、農家ってこんなもんでしょ、と返ってきた。うちとは大違いだ。
玄関を開け、ただいま、と声を掛けると、奥からパタパタと足音がして、灰島さんのお母さんが割烹着姿で出てきた。
「冬彦、久しぶりねえ。」
可愛い子を連れてきたわね、と笑顔で迎え入れてくれる。お父さんとは違って、お母さんは見た目からして穏やかな人だ。セミロングの髪を一つに結いて、動きやすい格好をしている。
「じいちゃんは?」
「去年から、老人ホームに入ったの。トラクターを降りる時に足を踏み外して、転んじゃって。それからあんまり歩けなくなっちゃったのよ。」
後でそっちも行くよ、と灰島さんは靴を脱いで上がる。
「こちら、桃瀬くん。恋人。一緒についてきてくれたんだ。」
頭を下げると、ふふと笑うお母さん。桜みたいな髪の毛ね、素敵だわ、と褒められた。
「冬彦は、桜が好きだったものね。」
その言葉に、真っ赤になって照れる灰島さん。やめてよ、なんて言うのが、なんだかいつもの大人びている灰島さんとは違って、なんだ、これ、可愛すぎる。
「桃瀬君は、泊まるのかしら?」
「いえ、ホテルでも取ろうかと。」
「この辺、駅まで行かないとホテル無いのよ。泊まってらっしゃいな。大歓迎よ。」
今夜はご馳走ね、とお母さんは嬉しそうだ。そりゃあそうだよな。家出した一人息子が帰ってきたんだから。冬彦の部屋にお布団持って行くわね、と言えば、自分でやるから、と返す灰島さん。俺ももう大人だから、と言うけれど、お母さんの穏やかながら勢いのある様子に、灰島さんも子供っぽく見える。
大事に、されてたんだな。きっと、凄く愛されて育ったんだろう。だからこそ、お父さんは灰島さんが身体を売った事がショックだったんだと思う。少しだけ、灰島さんから聞いた事がある。その頃は兎に角誰でも良いから経験を積みたくて、援助交際が手っ取り早かったって。高校生って、性に積極的な年齢だもんな。仕方ない事だけど、でも、それが無かったら灰島さんは、きっとこの農家を継いで、穏やかな日常を過ごしていたんだろう。
「うわ、そのまんまだ。」
懐かしいな、と自分の部屋に入るなり、窓を開けて空気を入れ替え、部屋の匂いを吸い込んだ灰島さん。ちょっとカビ臭いかな、なんて言いながら、床に座る。
「ねえ、灰島さん。」
隣に座りながら、灰島さんの肩に頭を乗せた。なあに、と灰島さんは俺の頭を撫でてくれる。
「俺と会えて、よかった?」
「勿論だよ。」
「でも、家出した事、後悔してない?こんなに愛されてんのに。」
「桃瀬くんに会えたから。今日連れてきたのが桃瀬くんだったから、父も母も納得してくれたんだよ。だから、今までの人生を後悔なんてしてない。」
まあどんな手を使っても桃瀬くんを探すけどね、なんて笑う灰島さんにキスをした。
「俺も、絶対に灰島さんを逃さないよ。」
甘い吐息が、部屋の空気を変える。
「桃瀬、くん、実家だから、」
「分かってる。」
もう一度、深いキスをしてから顔を離した。
「これだけ。ちゃんと我慢するよ。」
耳まで赤くなっている灰島さんの頭をぽんぽんと叩くと、灰島さんの方が物欲しそうな顔をしていた。この人、本当に誘い魔だな。
灰島さんがお祖父さんの老人ホームに行っている間、お母さんの仕事の手伝いをした。畑でとれた野菜を袋に詰める。汚れちゃうわね、と言われたけれど、高い服でもないし、大丈夫です、と黙々と作業をする。意外と楽しい。俺は服飾の専門学校に通っていて、服を縫ったり切ったりするのが好きだけど、こういう単調な作業が、多分合っているんだと思う。
「お父さんから聞いたんですけど、灰島さん、小さい頃に林檎の…コン…なんとかを作ったって。」
「コンポートかしら。」
お母さんは、口元に手を当てて笑う。
「そうね。私を驚かせたかったみたいで、二人で一生懸命作ったのよ。砂糖を入れすぎていたけれど、甘くてとっても美味しかったわ。お父さんと冬彦の、思い出の味ね。」
思い出。もしかしたら、それがきっかけで灰島さんはお菓子作りが得意になったのかな。そうだとしたら、とても大切な味だ。
「私が作っても、お父さんったら、冬彦と作ったやつの方が美味かった、なんて言うのよ。失礼しちゃうわよね。」
「その、コンポートって、何か応用できるんですか?」
お母さんは袋詰めの手を止めて、しばらく考えた。
「そうねえ…ありきたりだけど、アップルパイとかかしら。」
アップルパイ。以前店でも出していた事がある。それなら、
「桃瀬君、何か考えてるでしょう?」
お見通しよ、と笑うお母さんには、敵わないと思った。
「灰島さん、アップルパイ作ろう!」
灰島さんの帰宅早々に肩を掴んでそう言うと、なんで、と困った顔をされた。
「お父さんとの思い出だって。コン…コンコート!」
「コンポート、かな?」
そうそれ!と灰島さんの腕を引っ張って台所に連れて行く。林檎に卵にパイ生地、砂糖、材料は揃えた。お母さんも手伝ってくれたから、バッチリのはずだ。
でも、灰島さんはため息を吐いて、俺に向き直る。
「…なんで、俺がやらなきゃいけないの。」
あれ、俺失敗した?なんでそんなにやる気ないの。
「…お父さんとの、思い出の味って聞いたから。」
「桃瀬くんには、関係ないし、今の俺に父にそこまでする義理は、ないよ。」
その言葉に、頭から湯気が出そうなほど怒りが込み上げてくる。お父さんは、灰島さんの事をあんなに愛してるのに、なんでそんな態度取るんだよ。
「父は俺が嫌いだし、俺がゲイなのも理解ないから、俺がそこまでする必要、ない。」
大体そんな事したってあの人は喜ばないよ、なんて言うものだから、思わず灰島さんの頬を叩いてしまった。灰島さんはびっくりして、口を開けて俺を見る。
「なんで、そんな事言うんだよ!お父さん、灰島さんに怒鳴っちゃった事、凄く後悔してたよ。それに、怒ったのは理解がないからじゃない。自分を大切にして欲しかったからだって!」
「そんなの、俺、知らないし、」
「知らないんじゃなくて、知ろうとしないだけじゃないの?!灰島さんは、結局怖いだけだよ。お父さんの気持ちに向き合うのが。あんなに愛されてんのに!」
ぐっと何かを堪える灰島さんに、もういいよ、と俺は灰島さんの部屋に向かった。なんで、なんで分かんないんだよ。親子って、もっと理解し合うもんじゃないの。少なくともうちは、親と喧嘩した後に笑い合って涙を流すくらいには、仲が良い。俺は、灰島さんみたいに親に怒鳴られた事はない。だから、灰島さんのお父さんに対する気持ちは、多分一生分からないけど、それでも仲直りしてほしい。病気のお父さんは、いつどうなるか分からないんだから、今のうちに溝を埋めて、心置きなくこれからの人生を全うしてほしい。
でも、それは俺の単なる偽善で、ワガママだ。
分かってる。でも、それでも、お節介したくなるよ。好きな人の家族だもん。
「桃瀬くん。」
静かに襖が開いて、灰島さんが入ってきた。
「ごめん。ここまでしてくれたのに、俺、酷い事言っちゃった。ごめんね。」
ベッドに顔を伏せて、灰島さんの声だけを聞く。
「父は、桃瀬くんに何か言ってたの?」
横に座る気配。ふう、と息を吐いて、俺の髪をくしゃりと撫でる。
「…怒った事、後悔してたよ。大学に行かせてやりたかったって。良いお父さんじゃん。」
「…うん。」
「コンポート作った話も、お父さんから聞いた。美味かったって。思い出なんでしょ。」
「…うん、そうだね。覚えてる。」
「冬彦、って名前でずっと呼んでた。」
「父がつけた名前だから。冬に生まれたから、冬彦。」
単純だよね、と笑う灰島さんをちらりと見ると、瞳が涙で揺らいでいた。
「フユヒコさん。」
「やめてよ。」
「フユヒコさん、俺、フユヒコさんに幸せになってほしいんだ。俺との関係だけじゃなくて、もっと、フユヒコさんの世界が、あったかくて居心地が良いって思ってほしいんだ。」
「…有難う。桃瀬くんは、優しいね。」
「シュンヤだよ。」
え、と小さく溢す灰島さんに、もう一度言う。
「春って書いて、春也。灰島さんの好きな、桜の季節。」
「春也。」
「フユヒコさん、一緒に作ろうよ。アップルパイ。お父さんに食べてもらおうよ。フユヒコさんがここまで出来るようになったって、見せてあげよう。」
「…分かった。」
へへ、と笑ってみせると、灰島さんも優しく笑った。やっぱり、お父さんに似ている気がした。
翌日、アップルパイを持ってお父さんの病室に行った。
「桃瀬くんから聞いた。父さん、俺、色々誤解してた。ごめん。」
お父さんは、黙ってアップルパイを口に運ぶと、ゆっくり味わってから飲み込んだ。その途端、涙が溢れた。
「あの時より、美味い。」
「俺だって、これくらい作れるようになったんだよ。でも、カフェをやりたいと思ったきっかけは、あのコンポートを思い出したからだよ。」
お父さんの涙を拭きながら、灰島さんは小さな声でありがとう、と言った。
「冬彦、大きくなったな。」
「もう、とっくに大人だよ。」
「また、これを作ってくれるか?」
「また来るよ。何度も。その度に、飽きるほど食べさせてあげる。」
それから俺を見て、お父さんは少しだけ頭を下げた。
「緊張したー!」
誰もいない電車でそう叫ぶ俺を見て、灰島さんはくすくすと笑う。その割にはくつろいでたよね、なんて言うから、これでも緊張してたんだよ、と腕を組んで灰島さんを睨む。
「どんな怖い家族が出てくるかって、ビクビクしてたんだからね!」
そうかあ、なんて言うもんだから、ほっとしたのも相まって、灰島さんの頬を両手で挟んで、額をくっつけた。
「よかった。本当に。」
何が、と灰島さんが尋ねるので、行って良かった、と返すと、嬉しそうに俺の首に腕を回す。
「桃瀬くんが一緒じゃなきゃ、俺、ずっと誤解したままだったかも。ありがとう。」
軽く触れる程度のキスをすると、さっと顔が離れて、灰島さんは窓を見た。恥ずかしいんだろう。首が赤い。
「ねえ、フユヒコさん。」
灰島さんの名前を呼ぶと、やめてよ、と返ってくるが、気にせず続けた。
「今度、アクセ見に行こう。」
「ピアスは開けないよ。」
「ピアスじゃなくて、灰島さんの仕事の邪魔にならない、お揃いの何かを買いに行こうよ。」
それを聞いた灰島さんは少し驚いた顔をした後に、見下しネコ、と呟いたけれど、それだけは勘弁してほしいので俺は聞こえなかったフリをした。
田舎町の奥にそびえる山は、初夏の緑で覆われていて、とても綺麗だった。
冬が過ぎ、春が終わり、新しい季節。俺たちは、まだまだ、もっと幸せになるんだ。
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