桃瀬くんと灰島さん
【ほろ苦ガトーショコラ】


「何、これ。」

桃瀬くんの携帯を勝手に覗いてしまった俺も悪いけれど、それよりも気になってしまったんだ。

女の人と楽しそうに寄り添ってる桃瀬くんとのツーショットをアイコンにしている、メッセージの相手。

桃瀬くんは、ゲイじゃなかったの?それともどっちも好きな人?その子誰?今何話してるの?聞きたいことが雪崩のように押し寄せてきて、低い声で一言そう言ってしまった。

責めたつもりは、無い。それでもやっぱり少し不安が声に出ていたのかも。桃瀬くんは振り向いて「何が。」と少し不機嫌な顔で言う。

「人の、勝手に見ないでよ。」

そう返されて、涙が出そうになるのを堪えて、口を固く結ぶ。これ以上余計な事を言ったら、桃瀬くんに嫌われてしまう。それだけは、嫌だ。

ごめん、と小さく呟くと、桃瀬くんは慌てた様子で俺の手を取った。

「あ、違、そう言うんじゃないから!」

うん。」

ちょっと恥ずかしい事話してたからさ、と笑う桃瀬くんに、少しほっとしたような、でもそれは俺には言えない事なのかなって考えると少し寂しいような、そんな感情が駆け巡る。ねえ桃瀬くん。俺は、君の事全部知りたいんだ。それって、ワガママかな。

「灰島さんの事は、大好きだよ。」

俺の心を読んだようにそう言う桃瀬くん。優しい。その優しさにまた涙が出そうになるけど、ぐっと我慢する。

大好きなら、なんでも話してよ。

その言葉は飲み込んだ。桃瀬くんを信用していないみたいだったから。

 

「灰島ちゃんはさあ、我慢しすぎなのよ。」

若い頃にお世話になったゲイバーのママにそう言われた。ママは俺の親みたいなものだ。家出した俺を拾って、社会生活の一から十を叩き込まれた。そんなママの言う言葉だからこそ、俺にずしりとのしかかる。

カクテルを飲みながらママの言葉に反論する。

「でも、俺は年上だし、そう言うところはちゃんと堪えなきゃ。ワガママ言って通るのなんて、若いうちだけでしょ。」

「そこよ!アンタ、そう言うところ!」

びし、と指を差され、どう言うところ?と尋ねると、深いため息をついて、分かってないわねえと溢した。

「恋人なんでしょ?ワガママ言って当然じゃない。一人で抱え込んじゃうものも、恋人だから分かち合える。それが真実の愛よ!」

真実の愛。そんなもの存在するのだろうか。恋、と言う物自体がほとんど未経験な俺には分からない。

桃瀬くんは、多分、俺が初めて本気で好きになった人だ。桃瀬くんの事を考えると嬉しくなったり、悲しくなったり。少女漫画でよく目にした、「相手を思うと胸が苦しくなる」と言うやつ。

でも、だからこそ、どうしたらいいのか分からない。何が正解なのか、正しい行動が、俺には分からないんだ。

「何事も正解なんて、ないのよ。」

ふーっとタバコをふかしながら、ママが言う。

「百の恋があったら、百通りの恋愛の仕方がある。続いたって別れたって、人によっちゃあ正解にも不正解にもなる。だから、面白いのよ。正解の分かってる恋なんて、退屈じゃない。」

その通りかもしれない。今まで何人も男を相手にしたけど、それぞれの抱き方があった。それと同じだ。何が正しいかは、自分が決める事。

「とりあえず、」

新しいカクテルを出しながら、ママは俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。

「灰島ちゃんは、もう少し素直になる事ね。」

年上だからって気張りすぎよ、と笑うママは、何年経っても優しいな、と思った。

 

さすがに飲みすぎた。久しぶりにママの店に行ったってのもあるけれど、恋愛相談があんなに盛り上がるなんて。「サービスよ。」とどんどん酒を注がれるものだから、調子に乗って飲んでしまった。酒は、そんなに強くないのに。

ふらふらとした足取りで歩いていると、どん、とぶつかってしまった。回る視界で見上げると、俺よりも背が高い男の人の背中。すみません、と慌てて頭を下げる。あ、クラクラする。

大丈夫ですよ、と振り返った男の人は、すぐにこくり、と喉を鳴らした。

「シマ、くん?」

え、と顔を見ると、ゲイバーで働いていた頃の常連、赤川さんだった。少し老けたな、と失礼な事を思ったけれど、それは俺もか。

「赤川さん。お久しぶりです。」

「やっぱり、シマくんだ!どうしてた?店辞めちゃってあ、カフェやるって言ってたよね?どう?調子良いかな?ああ、それよりも、元気にしてた?大人っぽくなったね。いくつになったんだっけ。」

怒涛の質問責めにたじろいで、とりあえず最後の質問に答えた。

「二十七、です。」

そっか、と笑う赤川さんの笑い皺。あの頃には無かった。俺より五つ年上だったから、三十二か。

一人?と聞かれ、はい、と返事をすると、赤川さんは顎に手を当てて、俺をじっと見た。

「せっかく久しぶりに会ったから、どこかでゆっくり話したいな。」

「あ、すみません。俺、もうかなり酔ってまして。」

そう言って手を振って「もう酒は飲めない」という意思表示をしようとすると、身体が傾いて赤川さんに寄りかかってしまった。肩に丁度俺の顔が乗る。赤川さんの口が、耳に近い。

「じゃあ、休める所がいい、かな。」

低い声が、脳に直接響いてきて、頭がガンガンする。考える事をやめろ、と言われているようで、身体が麻痺して動けない。

手を引かれて、そのまま連れて行かれた。

 

ホテルの一室に入って、俺は倒れる様にしてベッドに横になった。赤川さんはスーツのジャケットを脱ぎながら、ふふと笑う。

ネクタイを緩めながら、俺の上にゆっくりと被さって、頬を撫でる。優しい手付きに思わず頬擦りしてしまうと、軽くキスをされた。

「シマくん、相変わらず可愛いね。」

「赤川さん、ずっと俺の事シマって呼ぶけど、俺、ハイジマ、ですよ。」

「分かってるよ。でも、シマくんって呼ぶの俺だけだから、なんだか特別な気がして、嬉しいんだよね。」

頬にあった手がゆっくりと下がってきて、鎖骨を撫ぜる。あ、と小さく声が出てしまうと、再び唇が重なる。今度は舌を絡めた、ディープキス。酔った頭がぐらぐらして、何が何だか分からない。上顎を擦られると、ぞくりと背中に電気が走る。服を捲って背中を撫でて、快感が身体中に巡ってくる。

しかし、それと共に何か違う、黒いどろどろした感情が溢れてきた。

徐々に思考がはっきりしてくる。

あれ?俺、何やってるんだろう。目の前でキスしている人は、俺の好きな人だったっけ。

 

違う。

 

気付いたら赤川さんの胸を思い切り押して、離れていた。身体が震える。どうしよう、俺、何やってるんだ。何をしてしまったんだ。

青くなった俺を見て、赤川さんは心配そうに覗き込む。吐きそう?と風呂場からタライを持ってきてくれた。

吐き気は飲み過ぎからじゃない。罪悪感。

「ごめん、なさい、」

空嘔吐をしながら謝ると、赤川さんは俺の背中を摩って大丈夫だよ、と言ってくれた。

大丈夫じゃない。ごめん、ごめんね桃瀬くん。

 

「顔色、悪いけど大丈夫?」

カフェで桃瀬くんに指摘され、窓に映った自分の顔を見る。顔色、というよりも、ひどいクマだ。あの後、まともに寝られなかった。赤川さんが添い寝してくれたけれど、すぐに出て行ってしまった。悪い事したかな。

「ごめんね。」

何が、と言う桃瀬くんに、とにかくごめん、と謝る。酔った勢いとは言え、桃瀬くん以外の人と寝そうになったのは事実だ。でも、それを説明するのはとても怖くて、言えなかった。

桃瀬くんの携帯が震える。アイコンは、あの写真。やっぱり気になってしまって、でも気にしないフリをして顔を逸らす。

カウンターに戻ってケーキの準備をする。今日は、ガトーショコラを焼いたんだ。コーヒーが隠し味。少し苦くて、甘いものが苦手な人でも食べられるように。でも、焼き上がりを食べてみても味なんて感じなくて、美味しくできたか分からない。

自信が、ない。ケーキも、俺にも。

「灰島さん。」

呼ばれて振り向くと、目の前に桃瀬くんの顔。カウンターから身体を伸ばして、キスをしてきた。驚いて持っていたケーキナイフを落とす。

「ねえ、何かあったんじゃないの?」

話してよ、と言う桃瀬くんは、俺の目をじっと見ていて、グレーのカラーコンタクトが俺の全てを見透かしている気がして、怖くなって顔を逸らす。でも、桃瀬くんはそれを許さず、俺の頬を両手で挟んで、もう一度キスをした。

「あの、メッセージはさ、」

ふう、と息を吐いて話し始めた。

「相談してたんだ。灰島さんに何かプレゼントしたくて、何がいいかって母さんに。」

「お母さん?」

あのアイコンやめろって言っても聞かなくてさ、と笑う桃瀬くんに、力が抜けてその場に座り込む俺。

お母さん。なんだ。お母さんだったんだ。

ママの言う通りだった。ちゃんと聞けばよかったんだ。自分一人で考えてないで、不安を共有していれば、こんなに悩む事なかったのに。

心配した桃瀬くんが、キッチンに入ってきて、俺を起こしてくれた。

「灰島さん、何か不安な事あったら、ちゃんと言ってね。」

抱きしめながら、そう囁いてくれる桃瀬くんに、涙が出た。

桃瀬くんは、こんなに優しい。それなのに、俺は、

「ごめん、桃瀬くん。本当に、ごめんなさい。」

泣きながら謝る俺の頭を優しく撫でてくれる。

「俺、しちゃった。キス。他の人と。」

その言葉に、撫でていた手が止まる。

は?」

怖くて顔は見れないけれど、多分怒ってる。とにかく、謝らなきゃ。

「ごめん。本当に、ごめ、」

「ごめんじゃなくて。」

俺の言葉を遮るように、強い口調で言った。

「なんでそんな事になったの。寝たの?」

首を横に振る。

「してない。それは、本当。キスだけ。俺、落ち込んでて、酔っ払って、それで、」

はあ、と息を漏らす桃瀬くん。あきれられたかな。嫌われたかな。それも仕方ない。自分のせいだ。振られたって、仕方ない。

そう思っていたのに、桃瀬くんは俺を強い力で抱きしめた。

「なんで!!!」

「桃瀬、くん?」

「なんで、そういうっ、あー、違う。俺のせいだよな。ごめん。責めるつもりはないんだけど、ああー!」

俺の肩に頭をぐりぐりと押し付けて、何を言ったらいいのか分からない様子だった。

それからぱっと顔を上げて、俺の目をまっすぐに見る。

どういうキス?」

「え、と、舌入れて、擦るような感じ。」

説明していると、ちゅ、と唇を重ねてきた。そのまま舌を捻じ込ませて、俺の口腔内で暴れさせる。下も上も擦るように、しつこくするものだから、唾液が溢れてきた。

「ふ、う、」

息をするのもやっとなくらいの、ディープキス。気持ちがいい。桃瀬くんの背中に腕を回して、快感に身を預ける。

赤川さんのとは、比べ物にならない。拙いけれど、やっぱり好きな人とのキスが一番気持ちいい。

しばらくそうした後に、離れていく顔。透明な糸を引いて、名残惜しそうに俺の唇は震えた。

「も、もせ、くん。」

頭をガリガリ掻いて、桃瀬くんは俺の頬に触れた。

「もう、そんな寂しい思いさせないから。」

「うん。」

嬉しくて、桃瀬くんの手に鼻を擦り付けると、すぐさま離されてしまった。

「そ、ういう事、しないでよ!キスだけじゃ足りなくなるだろ!」

我慢してんだからさ、と小さな声で顔を赤くして言う桃瀬くんが、愛おしくて、思わず押し倒してしまった。

「は、」

「桃瀬くん。」

タイを外しながら、桃瀬くんの上に跨って、桃瀬くんのピンクの髪を触る。さらさらしてる。綺麗な、桜色の髪。

「今日はもう、お店閉めちゃお。」

ノリノリじゃん。」

当たり前だよ。だって、俺は桃瀬くんが大好きなんだから。

誰よりも、何よりも、大切な、俺の年下の恋人。

キッチンの上のガトーショコラから、ほろ苦い香りが漂ってきたけど、桃瀬くんとのキスはさっきまで舐めていたさくらんぼの飴の味がした。