桃瀬くんと灰島さん
【甘いチーズケーキ】
灰島さんには、俺から告白した。カフェに通い詰めて、灰島さんがだんだん俺を意識し始めて、あ、これイケるわ、と思ったんだ。
チーズケーキを運んできた灰島さんの腕を掴んで、真っ直ぐに目を見て言った。
「すき、です。」
灰島さんの綺麗な黒い瞳が、少しだけ揺らぐ。それから、にっこり笑って、ありがとう、と言ってカウンターに戻って行った。
ありがとう?ありがとうってなんだよ。
慌てて追いかけ、カウンター越しに詰め寄る。
「…返事は?」
灰島さんは、黙ってコーヒー豆を挽きながら、ため息を吐いた。
「桃瀬くん。俺の年、知ってる?」
「…関係あるのかよ。」
「あるよ。俺、二十七だよ。桃瀬くんよりずっと年上。」
「たった七つじゃん。」
「その七つが大きいんだよ。俺の好み、年上だし。」
嘘だ。いや、好みは年上かもしれないけれど、灰島さんも俺の事、少しは気にしてくれている。毎日通って、お喋りして、表情を見ていれば、分かる。俺ほどじゃないにしても、灰島さんも俺の事、好きだよね?
「桃瀬くんは、」
豆を挽く手を止めて、俺に向き直り、笑顔で言った。
「もっと若くて素敵な子と、恋するべきだよ。」
その笑顔は見るからに作り物で、唇は震えていたし、少しだけ目が涙で滲んでいた。
灰島さんは、俺の事を考えて断っている。俺がまだ子供だから、年上の自分が俺の青春を奪う事に躊躇いを感じている。でも、俺は、
「灰島さんと、素敵な恋をしたいよ…。」
それ以上は何も言えなくて、なんだか灰島さんを責めているみたいで、俺はお金を置いてカフェを出た。
桃瀬くんが出て行ったカフェは静かで、そういえば他にお客さんなんていないことに気がついた。
食べかけのチーズケーキを片付ける。桃瀬くんは、いつもチーズケーキを頼む。何故だろう。そんなに、好きなのかな。いつ桃瀬くんが来ても良いように、チーズケーキを作っておくようになったのは、いつからだっけ。彼の使ったフォークで、残ったそれを一口食べた。今朝は良い出来だと思ったのに、なんだかあんまり美味しく感じなかった。少し、塩辛い気がする。
それが自分の涙のせいであると気付いたのは、ケーキに落ちた雫が目に留まった時だった。
あれ、俺なんで泣いてるんだろう。
桃瀬くんには、ちゃんと自分の気持ちを言った筈なのに、胸の奥がつかえている気がして、苦しい。嘘はついていない。でも、本当にこれで良かったのか、分からない。
俺は、桃瀬くんが好きだ。
少し無愛想なところも、たまに見せる笑顔も、本当は喫煙者なのに俺に気を遣って店では吸わないところも。
優しい子。だからこそ、俺みたいな年上のおじさんが、彼の今しかない青春時代を奪っちゃいけない気がして。
今までは、マッチングアプリで年上の男性とばかり付き合ってきた。それも長く続いた試しはないけれど、それでも、一時的に満たされるには充分だったし、俺はこれからも特定の人は作らずに、そうやって生きていくものだと思っていた。
高校生の頃、何度か男性相手に身体を売った事がある。本当は恋をしたかったのと、性的に満たされたかったからだけど、お金を取らずに寝てしまったらなんだか自分を安売りしてしまったような気分になる気がして、所謂援助交際をした。
それがある時親に見付かって、高校生活もあともう少しで終わるという時に、俺は家を飛び出して、一人で生活を始めた。お金だけはそこそこあったし、当時はそれほど苦労せずに済んだ。ゲイバーのママに拾われて、そこでバーテンダーの仕事をした。ゲイである事を隠さずに済むのが、とても気楽で、けれどそれに反して俺は自分から身体を穢した事によって短い青春時代を棒に振ってしまったのだと気付いた。
俺は、普通じゃない。桃瀬くんみたいな優しくて純粋な子の隣で笑っていていい存在じゃあないんだ。
本当は、彼の気持ちに応えたかった。俺も好きだよ、と素直に言えたら、どんなに良かっただろう。でも、そう言ってしまったら、俺のせいで彼が穢れてしまう気がして。そんなのは、望んでいない。それなら、自分の気持ちを隠して、もう二度と彼に会えない方が、彼の為になる。
そう思ったのに、それなのに、涙が止まらない。
「桃瀬くん、ごめん。」
静かなカフェで、一人嗚咽を漏らしながら、俺は桃瀬くんの名前を小さく呼んだ。
カフェを出たは良いものの、行く宛なんてなくて、商店街をフラフラと歩いていた。ふと、目に入ったのは雑貨屋。趣味の悪い猫のぬいぐるみが、ショーウィンドウ越しにこちらを見ている。
どこかで見たことある気がして、なんとなく、本当に気まぐれで、店に入ってみた。
そのぬいぐるみは意外とたくさんグッズがあって、キーホルダーやらTシャツやら、品揃えは豊富だった。小さなマスコットがポツンと置いてあって、思い出す。あ、これ、カフェのレジ横に飾ってあったやつだ。
「可愛いですよね、見下しネコちゃん。」
店員の女性が声を掛けてきた。見下しネコって言うのか。変な名前だな。
「男性にも結構人気があるんですよ。そのナイトメアシリーズ。」
「ナイトメア…?」
聞き返すと、こちらも同ラインナップの商品なんですよ、と案内された。目が死んでいる人形や、やたら顎が出ている犬など、変なキャラクターばかりだ。
「死んだ目坊やと見下しネコちゃんは、特にセットで買われる方が多いですよ。カップルですとか。」
お兄さん素敵な彼女いそうですよね、と言う店員に、はあ、と言う生ぬるい返事しか出来なかった。
「お揃いのマグカップとか、いかがですか?」
意外と押しの強い店員にあれは、これは、と勧められ、渋々マグカップとキーホルダーを買った。どうしよう、これ。ショッキングピンクの手提げに入った趣味の悪いキャラクターグッズをどうするか考えて、考えて、考えて、やっぱり思い出すのは灰島さん。
謝ろう。それから、もう一度、きちんと俺の気持ちを言葉にして伝えよう。そうすれば、きっと分かってくれるはずだ。
カフェに戻ると、閉店の札が掛かっている。まだ三時だ。早すぎる。俺が出て行ってから、一時間しか経っていない。
鍵は閉まっておらず、静かに扉を開けると、しんとした空気がのしかかる。
「灰島さん…?」
声を掛けるが、返事は無い。もしかして、突然具合が悪くなったとか。心配になって、カウンターの奥やトイレまで探す。鍵が空いてるって事は、恐らくまだ中にいるはずだ。
バックヤードの扉を開けようとノブに手を乗せると、小さく呟く声が聞こえた。
「…めん、ごめん。桃瀬くん…。」
震える声で、そう繰り返す灰島さん。開けようとした扉に額を当てて、少し考える。今、俺が入ったら、灰島さんはどんな顔をするだろう。男が泣いているところなんて、見られたく無いはずだ。でも、このまま放っておいていいのか。そんな無関心を装えるほど、俺は要領が良くない。
「…灰島さん。」
扉越しに名前を呼ぶと、ガタガタと慌てた音。鼻を啜る音が聞こえて、返事があった。
「も、もせくん、戻ってきたの?」
少し、嬉しそうだ。良かった。戻ってきて。良かった。
「ごめんね、俺、灰島さんの事困らせるつもりはなかったんだ。ただ、やっぱり俺、好きだから。灰島さんが、好きだから。この気持ちに嘘はつけないよ。」
それからノブに紙袋を下げて、少しだけ間を置いて、続ける。
「ずっと待つから。灰島さんが納得いくくらい、良い男になる。そうしたら、俺と付き合ってくれますか?」
ゆっくりと扉が開いた。目を赤く腫らした灰島さんが、俺を見て、申し訳なさそうに言葉を紡ごうとするが、もごもごと口が動くばかりで、なんて言ったらいいのか分からないようだった。
俺は無意識に灰島さんの襟首をぐいと掴んで、自分に引き寄せた。そのまま、唇にキスをする。灰島さんは驚いて目を丸くしていたけれど、やがて肩の力が抜け、俺の頬にそっと手を添えた。
「ん…、」
甘い吐息が漏れる。調子に乗って舌を捩じ込ませてみると、応えるように灰島さんも絡めてきた。俺よりも背の高い灰島さんは、気持ちが良いのか足がカクリと折れ、俺に体重を預けるように寄りかかる。
「桃瀬く…、んっ、」
頭を押さえて離れないように、深く、深く灰島さんの口腔内を犯すと、頬にあった手は俺の首に回り、身体を密着させた。
どれくらいそうしていたのか、やっと離れた唇からは、涎が糸を引き、灰島さんは蕩けた表情で俺を見る。
「灰島さん、俺の事、好き?」
小さく頷く灰島さんの顔は、耳まで真っ赤で、とても年上とは思えないくらいに可愛くて、思わず抱きしめて、大きく息を吐いた。
「なんで素直にならないかなあ、最初から!」
「ご、めん。だって、桃瀬くんにはもっと良い人がいると思って、」
「灰島さん以上に、良い人なんて、この世にいると思ってるの?!」
「い、いるよ!たくさんいる!俺、は、桃瀬くんが思ってるよりも、ずっと嫌な人間だよ。」
「それもさ、」
灰島さんの耳を舐めて、囁く。
「全部知りたい。全部ひっくるめて、好きになりたいよ。」
腰に手を移動させて、少し摩ると、灰島さんの身体はびくりと反応した。
「キスで敏感になっちゃった?それとも、俺の事が好きだから?」
「い、じ、わる、しないでよ…!」
「ごめん。」
少し触れる程度のキスをして、灰島さんの顔を見ると、真っ赤になって涙目で俺を見ている。
「灰島さんが可愛くて、いじめたくなっちゃった。」
ぽこぽこと俺の胸を叩いて怒る灰島さんはとても可愛くて、そのまま押し倒したくなってしまったけれど、さすがに灰島さんの大切にしている店でするのは良くない。もう一度キスをしてから、帰る支度を始めた。
初めて入った灰島さんの部屋は、とてもシンプルな家具が揃えてあって、大人の部屋って感じがした。それでも、ところどころに趣味の悪いキャラクターのぬいぐるみが飾られていたりして、ああ、灰島さんらしいな、と思った。
「あ!ナイトメアシリーズ!」
俺の買ってきた紙袋を開けて、マグカップを取り出して大喜びする灰島さん。このキーホルダーはカフェの鍵に付けるね、と嬉しそうに言うのが、とても可愛くて、ムズムズしてしまう。
「こっちが桃瀬くんので、こっちが俺のかなあ。」
マグカップを掲げてそう言う灰島さん。何が、と問いかけると、少し頬を赤らめて、小さな声で言った。
「だって、その、来るでしょ?桃瀬くん。これからは、カフェだけじゃなくて、うちにも。」
ああ、そうか。
「付き合って、くれるの?」
こくり、と頷く灰島さん。
「桃瀬くんは、待たなくても、もう充分素敵な男性だよ。」
その言葉が嬉しくて、飛びついて押し倒してしまうと、ちょっと待って、と止められる。
「その、ちゃんと準備しないと。」
準備?準備って、
「男同士は濡れないし、使う穴が穴だから、その、分かる…?」
ああ、そう言う事か。
「灰島さんを傷付けたく無いから、ちゃんと待つよ。ただ、その、さ、準備って、どうするの…?」
「え?」
灰島さんは少し目を見開いたあと、桃瀬くんって、と呟いてから、くすりと笑った。今度は俺が、真っ赤になる番だ。
灰島さんは、俺の背中を叩いて、大丈夫だよ、と言うが、俺としては大丈夫じゃあない。二十歳にもなって童貞だなんて、やっぱり恥ずかしい。仕方のない事なんだけど。灰島さんから見れば、本当に俺って子供だな、と再び自覚する。
「笑うなよ…!」
「笑ってないよ。嬉しいだけ。」
口に手を当てて、ふふふと溢す灰島さんの目は、少しだけギラギラしている気がした。
「若い子の初めてを奪っちゃうなんて、俺、ちょっと悪い大人みたいじゃない?」
そうか。灰島さんは年上が好みとか言っていたから、年下の、しかも童貞とするなんて、初めてなんだ。
「悪い大人はね、こう言う事もしちゃうんだ。」
そう言って、俺のジーンズを勢いよく脱がせ、露わになったそこをぱくりと咥え込んだ。いきなりのことで頭が追いつかない俺は、灰島さんの肩を掴んで、必死に声を殺すしかなかった。
「ん、大丈夫だよ、桃瀬くん。皮もかぶってないし、立派だよ。未使用なのが勿体無いくらい。」
裏筋を舐めながら、溢れる先走りを舌で掬って、灰島さんはうっとりした目でそんな事を言う。この人、こんなにエロかったのか。いつもと違う灰島さんの妖艶さに、余計に勃ってしまう。
「は、いじま、さ、やめっ、一回離してっ、」
「んー?」
「出る、出ちゃうからっ、」
「出していいよ。」
先っぽを強く刺激され、俺は灰島さんの口の中で、呆気なく果ててしまった。灰島さんはそれを吐き出すことなくごくり、と飲み込むと、口を大きく開けて、ご馳走様、とキスをする。
まずい。これは、俺には刺激が強すぎる。
「灰島さん!!!!」
大きな声で名前を呼ぶと、びくり、と肩が上がり、どうしたの、と俺の顔を覗き込む。俺は深く息を吸って、早まる心臓を抑え込んだ。
「あんまり、そう言う事、しなくていいから。俺、普通に灰島さんと一緒になれれば、それで幸せだから。」
灰島さんは瞬きを何回かした後、さっと血の気の引いた青い顔になり、ごめん、と俺に頭を下げた。
「桃瀬くん、俺、ちょっと調子に乗っちゃった。ごめん。今迄の人たちは、こういうのが好きな人が多かったから…引かないで。嫌いに、ならないで。」
泣きそうな目でそんな事を言う灰島さんは、必死に俺を繋ぎ止めようとしているようだった。
俺は灰島さんの髪をくしゃりと撫でて、頬にキスをする。
「嫌いになんて、ならないよ。ちょっとびっくりしただけだから。灰島さんも、無理しないで。俺に合わせて。初めてのつもりで、しよう?」
「…うん。」
猫みたいに撫でている俺の手に擦り寄ってきて、本当、この人は可愛いらしい。
「灰島さん、好きだよ。」
「ん、俺も、好き。桃瀬くんが、好き。」
初めて灰島さんから聞いた、俺への返事。好きと言う言葉。これ以上大切な言葉があるだろうか。頭の中で密かに録音する。いつでも再生できるように。俺の、初めての、好き。
「灰島さん、準備があるなら、俺、手伝うよ。一緒にしよう。」
「え、」
「…いや?」
「や、うーん…。」
少し顔を赤くして、灰島さんは困った顔をした。
俺が、無知すぎたのだ。
まさかあそこまで入念に、いや、あんまりこう言う事を説明するのはやめておいた方がいいよなあ。兎に角、俺が男同士のセックスについて、あまりにも何も知らなかったので、灰島さんはかなり細かく説明してくれた。初めての相手が灰島さんで良かったと、心の底から思った。
一通りの準備が整って、ベッドに移動すると、灰島さんはサイドボードからローションを取り出して、こうして手に出して擦りながら温めると人肌くらいの温度になるよ、と教えてくれた。なるほど、冷たいままだとびっくりするもんな。俺の無い知識でも、やっぱりゴムはつけた方が良いだろうな、と思ってどこにあるのか尋ねると、灰島さんはキョトンとした顔の後、いるの?なんてとぼけた言葉を発する。
「今迄の人とは、してこなかったよ。」
「バッ、だっ、…!!!」
声にならなかった。この人、変なところで分かってない。不安だ。
「一応年に一回性病検査もしてるし、大丈夫だと思うけど。」
「そう言う問題じゃない!」
思わず頭を叩いてしまうと、叩かれたところを手で摩りながら、少し驚いていた。
「性病だけじゃないだろ。身体に負担がかかるんだから、そういうの、ちゃんとしなきゃ駄目だよ!」
ふふ、と笑った後に、俺、大事にされてんね、と言う。当たり前だ。俺の初めての人なんだから。大切にするに決まってる。
「大事にするよ。灰島さんの事、好きだもん。」
確か財布に友達から貰ったやつが入ってたよな、と思い出し、鞄をゴソゴソしていると、その間何も言わずに俯いている灰島さんに気付いて、不安になり、顔を見てみると真っ赤になって口元を緩ませている。こんなにニヤけた灰島さんは、初めて見た。
「どうしたの?」
ゴムを取り出して、灰島さんに尋ねると、声が震えていた。
「初めて、」
「ん?」
「初めて言われた。好きだから大事、だなんて。」
この人、本当に二十七か?セックスに関しては詳しいけど、恋に関してはウブすぎる。そう言う事、してこなかったのかな。なんか、それって、
「灰島さんの初めて、俺が奪っちゃったね。」
にひひ、と笑ってみせると、恥ずかしそうに枕で顔を隠した。形勢逆転、かな。
「桃瀬くん。」
枕でつぶれながら俺の名前を呼ぶ。返事をすると、籠った声で、言った。
「俺、今、すごく幸せ、かも。」
「今だけじゃ、ないよ。」
枕を退けて、直接見る顔は、真っ赤だ。額にキスをして、そのまま首筋をゆっくりと舐める。甘い声が出るその唇に自分の唇を重ねる。俺の身体に腕を回して、脚で俺の腰をぐっと掴む。
「これから、もっと幸せになるんだよ。俺たちは。」
俺と灰島さんが、初めて身体と心を重ねた日だった。
「あ、そのキーホルダー。」
灰島さんの家に泊まった翌日、一緒にカフェに向かった。今日は学校は休み。
カフェの扉の鍵を開ける灰島さんの手には、見下しネコのキーホルダー。俺が昔、あげたやつ。
あの頃と違って、俺は髪をピンクに染めて、ピアスも増えて、おまけに禁煙しているせいで飴が手放せない。対して灰島さんは、見た目は変わらない。でも、内面的にはかなり変わったかも。自分の気持ちをよく話すようになったし、遠慮がちだった性格も、今では時々喧嘩もするほど自己主張をするようになった。
これが、きっと、本当の灰島さんなんだ。
「桃瀬くんが初めてくれたプレゼントだもん。大事にしてるよ。」
所々色のハゲたキーホルダーは、俺たちの深い付き合いを主張しているようで、少し嬉しくなる。
「ところでさ、」
中に入って身支度をしながら、灰島さんが聞いてきた。
「桃瀬くんって、チーズケーキ大好きなの?」
「は?」
「え?」
気付いてないのか。覚えていないのか。どっちだろう。
「俺がさ、」
カウンター席に座り、灰島さんがコーヒーを用意する手を見る。その手際の良さが、俺は好きだ。
「俺が失恋した時、初めてこのカフェに入った時に、灰島さんがかけてくれた魔法のおまじない、覚えてない?」
ぴたりと手を止めて、少しの間の後、震えながら顔を赤くして振り向いた。
「そ、れって、」
「元気になるおまじない。」
その場にしゃがみ込んで、ふるふると首を振る。
「やめて!本当に恥ずかしい事したって、あの後、後悔したんだから!」
「俺は、嬉しかったよ。」
照れる灰島さんの背中を見ながら、あの時を思い出す。
「あれがきっかけで、灰島さんの事好きになったからさ。」
ぴたりと動きを止めて振り向く灰島さんは、少し嬉しそうだった。
「…初耳。」
「言ってないからね。」
恥ずかしいじゃん、と笑うと、俺の方が恥ずかしいよ、と返される。
「でも、桃瀬くん、約束守ってくれてるから。」
何の事かと思ったら、人差し指を立てて、俺の唇にそっと触れる。
「幸せに、してくれてありがとう。」
「まだまだだよ。」
その指に軽くキスをして、灰島さんの綺麗な黒い瞳を見つめた。
「俺たちは、もっともっと、幸せになるんだよ。」
開店前のカフェに、二人だけの笑い声が響く。ここは、思い出の場所。俺たちを繋いでくれた、奇跡の場所。
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