稲荷の神様


曾祖母は、信仰心の厚い人だった。

遊びに行くと、必ず山を登った先にある、寂れた稲荷神社にお参りに行った。お供えは、必ず稲荷寿司。

曾祖母曰く、なんでも戦争時にそこの神様が守ってくれたから、この村には爆弾が落ちなかったんだよ、と。

そんな事を毎回聞かされていたので、俺もいつしか神様と言うものを信じるようになっていた。

ある日、曾祖母が乳癌で入院する事になって、俺は両親と毎週のように見舞いに行った。

ベッドに横になったまま、曾祖母は言った。

「陽太ちゃん。おばあちゃんの代わりに、あの神社に行ってくれる?きっと、神様が寂しがっているわ。」

そう言われて、俺は親に買ってもらったおやつのチョコレートを持って、神社に行った。五円玉を賽銭箱に入れて、手を合わせる。曾祖母が元気になるようにと願いを込めて。それから、祠の前にチョコレートを置いた。

曾祖母は、神社に来ると、必ずそこにある大きな銀杏の木に手を当てて、力を貰っていた。本当に力が貰えるかなんて分からないが、俺も曾祖母に倣って真似をした。目を瞑って、どうかこの力が曾祖母に届きますように、と。

暫くして目を開けると、木の裏から、俺と同じくらいの歳の少年が、ひょっこりと顔を出した。見た目が同じくらい、ってだけで、服装はまるで違う。着物に、裸足。頭には狐の面を付けている。片目は面のせいで、隠れていた。

「岡本の曾孫か?」

少年が聞いた。小さく頷くと、やっぱりな!と俺の手を取ってぐるぐる回した。

「岡本はいつも美味い稲荷寿司を持ってきてくれるんだ。感謝している。礼を言おうと思ったのだが、最近めっきり来ないな。何かあったのか?」

こいつ、曾祖母のお供えを勝手に食ってやがったのか。なんて罰当たりな奴。

俺は少し頬を膨らませて、答えた。

「おばあちゃん、入院したんだよ。だから、俺が代わりに来た。」

「ほう。」

「おばあちゃんみたいに稲荷寿司は作れないから、お供えはチョコレートだけど。」

「チョコレート?」

「お菓子だよ。甘いお菓子。」

「ぼたもちか?」

「違うよ。チョコレートだってば。」

少年は、何故だかピンと来ない様子で、祠に向かった。俺の置いた、小さなチョコレートを手に取って、匂いを嗅いだり、袋を開けずに舐めたりした。

何だ、コイツ。変な奴だな。

仕方無く、袋を開けて、中身を出してやった。少年はそれをそっと口に運び、一口齧った。途端に、足をバタつかせて、何とも言えない蕩けた表情になる。

「何だこれは!」

「だから、チョコレートだってば。」

「口の中で溶けてしまったぞ!それに、甘くて美味い!」

まるで、初めて食べたような感想だな。やっぱり、変な奴だ。

「もっと無いのか?!」

言われて、ポケットから自分の分のチョコレートを取り出した。少年はぱっとそれを奪うと、さっさと袋を破り捨て、食べてしまった。

「別に良いけどさ...。」

俺がぽつりと呟くと、少年は口をもごもごしながらこちらを向いた。

「一応、神様へのお供えなんだから、ちゃんと手、合わせなよ。」

不思議そうな顔をする少年に、俺は祠に向かって手を合わせて見せた。少年は、それに倣って手を合わせる。

「岡本の曾孫は、神を信じるのか?」

「分からない。でも、」

息を吐いて、曽祖母の顔を思い出す。

「おばあちゃんが、信じていたから。俺が代わりにやらなきゃって。」

その言葉に、少年はにっこり笑って、俺の頭を撫でた。

「岡本の曾孫は、良い子だな!」

「その呼び方、やめてよ。」

頭を撫でられ、何故だかふわりと心が軽くなる気がした。

「結城。結城陽太だよ。」

ゆうき、と少年は俺の名前を繰り返す。

「君は?」

「好きに呼べ。」

名前を聞いた途端に、少し不機嫌な顔をした少年。自分の名前が嫌いなのだろうか、と思った。

「じゃあ、稲荷神社で会ったから、イナリって呼んで良い?」

「イナリか。」

「稲荷寿司も、好きなんでしょ?」

「うむ。良いな。俺は、今日からイナリだ!」

気に入ったらしく、ぴょんとその場を跳ねて、銀杏の木に登った。

「結城、明日も来るか?」

頷くと、イナリは笑顔を見せる。突然、風が吹き、落ち葉が騒めく。一瞬目を閉じてしまったが、次の瞬間には、イナリの姿は見えなくなっていた。

 

「そりゃあ、きっと神様だよ。」

病院で、曾祖母にイナリの話をすると、言われた。

「陽太ちゃんがお参りに来たのが、よっぽど嬉しかったんだろうねえ。」

「でも、子供だったよ。」

「神様ってのは、姿形を変えられるんだよ。陽太ちゃんと仲良くなりたくて、子供に化けたのかもしれないよ。」

そうだろうか。もしそうなら、少し嬉しい。神様が、俺の為に出てきてくれたなんて。

「俺のお願い、聞いてくれるかな。」

「陽太ちゃんが、神社に通ったら、きっと叶うだろうよ。」

曾祖母は俺の頭を撫でながら、言った。イナリの時とは違う心地よさが、くすぐったい。

「何をお願いしたんだい?」

「言ったら、叶わなくなっちゃうんでしょ?」

「陽太ちゃんは、良く知ってるねえ。」

俺の今の願いはただ一つ。曽祖母の病気が良くなる事だ。多分、曾祖母も気付いている。しかし、病状は悪くなる一方だ。乳房の摘出手術は成功したが、癌は他にも転移していて、もう手の施しようが無いらしい。

曾祖母は、死ぬ。

それは分かりきっている。俺だって、覚悟している。でも、もう一度、もう一度だけあの神社に一緒に行って、イナリに会わせたい。イナリが曾祖母に感謝していた事をイナリから直接伝えてほしい。

 

「イナリは、神様なの?」

神社の祠の前で、ポテトチップスを食べているイナリに、直接尋ねた。イナリは指を舐めながら、少し考えて答えた。

「神だったら、結城は俺と友達になるのは嫌か?」

首を横に振って、イナリの手を握る。ベタベタしていたが、関係無い。

「神様と友達だなんて、とても嬉しいよ。」

「そうか。」

二ヒヒ、と歯を見せて笑うイナリ。しかし、次の言葉で稲荷の笑顔が消えた。

「友達なら、お願い聞いてくれる?」

俯いて、睨むように俺を覗き込んだ。

...その為に、」

「うん?」

「願いの為に、俺と友達になるのか。」

「違うよ!」

握る手をさらに強く、稲荷の目を真っ直ぐに見つめた。イナリの瞳は、少し赤みがかっている。曾祖母と行った、鬼灯の祭りを思い出す。

「俺のお願いって言うのは、イナリにおばあちゃんに会ってほしいんだ。」

イナリは目を見開き、驚いたような顔をした後、悲しそうに呟いた。

...無理だ。」

「何で、」

「俺は、」

イナリの手が、俺の手をすり抜ける。口元を押さえて、震える声に気付かれないようにしているようだった。

「俺は、此処から出られない。」

「え?」

「俺は、神無月以外は、神社の外には出られない。だから、俺には友達がいない。昔はそんな制約は無かったんだが、少し無茶をしすぎて上から叱られて、結界を張られたんだ。だから、岡本のいる病院には行けない。」

無茶をした?それって。

...戦争?」

黙って頷いた。イナリは子供の俺にも分かるように考えているのか、ぽつりぽつりと話してくれた。

「戦闘機...爆弾を載せた飛行機が、村の上を沢山飛んだ。その頃は村の人々も良くこの神社に来ていたから、俺は村を守ったつもりだった。その代わり、」

深く息を吸い、言葉を紡いだ。

「村の外、他の村に爆弾が落ちた。そのせいで、他の神社の神から叱られてな。この神社を出ない代わりに、神でいる事を続けられていれる。」

銀杏の木がざわざわと揺れる。戦争の時の喧騒とは、比べ物にならないだろうが、まるでイナリの言葉と共に、当時の音を再現しているようだった。

「じゃあ、俺とこの神社の外に遊びに行くのも、出来ないんだ。」

イナリの瞳が、少し揺らいだ。友達と遊びに行く、きっとイナリが憧れていた事だ。

...結城が会いにきてくれれば、それで良い。」

「俺、俺は、連休が終わったら、一度東京に帰らなきゃ。」

...そうか。」

「でも、」

イナリの肩を掴んで、顔を近付ける。イナリは頬を染めて、驚いていた。

「次の休みも、おばあちゃんのお見舞いにこっちに来るから。イナリにも、会いに来るよ!」

嬉しそうに、それを隠すように、イナリの唇が俺の手に触れた。

「待ってる。」

 

何度も、何度も、両親に連れられ、休みの度に曽祖母の見舞いに行った。その度に、稲荷神社にも顔を出した。

イナリには、元々名前が無いと言う話も聞いた。神様は、基本的に呼称が無いらしい。有名で地位のある神様は別だが、神社に住み着いている程度の神様は、無名だと言う。だから、俺から名前を聞かれた時に困ったし、名前を付けてくれた事がとても嬉しかったと言う。

ある時、お湯と即席のうどんを持っていくと、イナリは大層喜んだ。こんな美味いもの食べた事ない、と言って、あっという間に平らげた。即席麺でこんなに喜んでいる人を見たのは初めてで、面白くて思わず吹き出してしまった。

「あと、さ。」

俺は鞄をゴソゴソと漁って、缶ビールを取り出した。

「イナリは、見た目は子供だけど、神様だから大人でしょ?だから、お酒も好きかなって。」

おお、と感嘆の声を上げるイナリ。嬉しそうだ。

「酒なんて、久しぶりだ。でも、ちょっと待っていろ。」

そう言うと、イナリは立ち上がって、何かを唱えた。すると稲荷の周りに煙が立ち上り、霞む稲荷の姿が、だんだん大きくなっていく。

イナリは、少年の姿から、背の高い大人になった。

「酒を飲む時は、この姿と決めている。」

驚きと同時に、胸が高なった。こんな気持ちは初めてで、大人の姿のイナリを見ていると、動悸が止まらず、顔が紅潮していくのが分かった。

「驚いたか?」

ニカっと歯を見せて笑うイナリからは、少年の時の面影があった。しかし、どこか妖艶で、俺は子供ながらに下腹部が熱くなるのを感じた。

...格好良いよ。」

それが、精一杯の言葉だった。

イナリは祠にどかりと座ると、缶ビールを一気に飲み干した。神様は酒が好きだと良く聞くが、イナリもそうらしい。持ってきた3本は、あっという間に無くなった。少し顔が赤い。久しぶりと言っていたし、酔いが回ったのかもしれない。イナリは大人の姿のまま、子供の俺の肩に顎を乗せ、耳を甘噛みした。その行為にびくりと身体が反応する。

「結城。」

甘い吐息が耳に掛かる。俺の腰に手を回して、イナリは俺の名前を何度も呼ぶ。俺はそれに応えて、イナリを呼ぶ。

「イナリ、さん。」

「結城。」

「何、イナリさん。」

「好きだ。」

耳に舌が這う。どうしたら良いのか分からず、硬直していると、イナリは俺の唇に軽くキスをした。

「イナリさん。」

「好きだ。結城。お前が、好きだ。」

「俺、まだ子供だよ。」

「それでも、良い。何年だって待つ。だから、」

銀杏の木がざわつき、両親が俺を呼ぶ声が聞こえた。

「必ず、また会いにきてくれ。」

枯れ葉がイナリの身体に纏わり付く。風が吹き、葉を散らすと、イナリの姿は消えていた。

 

その日、曽祖母は死んだ。

 

葬儀を終え、息つく間もなく帰る日が来た。一目だけでもイナリに会いたくて、俺は神社へ行きたいと駄々を捏ねたが、両親は仕事があるからと言い、取りつく島も無かった。

電車の車窓越しに、神社のある山が見えた。あの銀杏の木だけが、黄色く光っていた。

車内で、両親は曽祖母から預かったと言う手紙を渡してきた。それには、もう一度一緒に神社に行きたかった事、イナリに会いたかった事、それから、あの大きな家を俺に譲るという事が書かれていた。

 

何年経っても良いから、いつか陽太ちゃんがあの家で暮らして、神様と仲良くしてくれたら嬉しいわ。

 

曾祖母は、イナリが他に頼る人がいない事を知っていたのだろうか。

手紙を鞄に仕舞って、いつまでも山を見つめていた。

 

5年が経った。俺は東京の家を出て、曽祖母の暮らしていた家で一人暮らしをしながら、こちらの高校に通うことにした。

引越しのトラックを見送った後、荷解きも後回しにして、山へと向かった。石段は、昔よりも小さく感じた。

塗装の剥げた鳥居。その両隣に狐が二匹。祠の前に、黒い猫が日向ぼっこをしていた。

「お前、いつからここにいるの。」

猫の頭を撫で、先を越されちゃったな、と呟く。見上げると、銀杏の木はまだ立派に聳え立っていた。

「ここはお前のような奴が来て良い場所ではないぞ。」

銀杏の木から、声が聞こえた。猫を抱いて、その声に呼びかける。

「イナリさん。」

キラリと赤い瞳が光った気がした。

「待たせて、ごめん。会いに来たよ。これからは、毎日来られる。」

ざあ、と銀杏の葉が揺れる。

目の前に現れたのは、あの頃と変わらない少年の姿。

猫を逃して、駆け寄り、抱き締める。

「イナリさん。」

「結城。大きくなったな。」

「もう5年だもん。イナリさんより、大きいよ。」

「それは、どうかな。」

気付くとイナリさんは、大人の姿になっていた。ニヤリと笑って、俺の額に自分の額を当てる。イナリさんの頬に触れると、暖かくて優しい気持ちになった。

「イナリさん。遅くなったけど、俺の返事、聞いて。」

イナリさんは真っ直ぐに俺を見つめた。赤い瞳が、心に刺さる。

「好きだよ。俺もイナリさんの事、ずっと好きだ。」

唇を重ねて、会えなかった日々を埋めるかのように舌を絡めた。

銀杏の木が、風に揺られてざわざわと音を立て、俺達を祝福しているかのようだった。