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変わり始めたのは、それからしばらく経ってからの事。
朝、昇降口で七海を見かけ、それとなく挨拶をしたところ、それまでは返って来なかった言葉が。「おはよう。君、なんて名前?」
驚いて彼を見ると、少し恥ずかしそうに、へらりと笑っている。
「星野圭吾…一組の…。」
そう答えると、七海はその口元を一層緩めた。こんな笑顔は初めてだ。
「僕、七海 藍。よろしくね、星野くん。」
その日から、七海との付き合いが始まった。
彼は僕を「星野」と呼んだ。だから僕は、「七海」と呼ぶ。クラスの違う僕達だったが、側から見ればとても仲の良い二人であった事だろう。
七海は最近。怪我が減った。少なくとも、見える箇所に痣を作らなくなった。階段から落ちなくなった。火傷も完治した。早川が、近付かなくなった。
彼は今や、いじめられっ子ではなくなったのだ。
何があったのかは分からない。しかし、彼は自分の立ち位置を確保したようだった。
いじめられなくなった彼は、毎日を生き生きと過ごしていた。僕の日記には、書くことがなくなっていった。七海の白い肌のように、白紙のページが続くノートを見ては、何とも言えない感情に襲われた。
「星野のお陰だよ。」
学校帰りにファストフード店に寄った僕らは、育ち盛りの高校生らしく、大量のポテトとハンバーガー、Lサイズのジュースを手に、他愛もない会話を繰り広げていた。
智は一緒にいない。最近彼とは、遊んでいない。
七海はそう言って、突然膝に手をつき僕に向かって頭を下げた。僕は驚いて、目を丸くしてその光景を見ていた。
「な、何。どうしたの?突然。」
「感謝してるんだよ。君と、君のそのビー玉みたいに綺麗な目に。」
彼は真っ直ぐに僕を見つめ、言った。その真面目でキリリとした綺麗な表情にどきりとしてしまう。
「星野がいたから、声をかけてくれたから、僕は学校で「居場所」を見つけることが出来た。君がいなきゃ、環境が変わったとは言え僕は一人ぼっちだったよ。本当に、ありがとう。」
「それは…どういたしまして…。」
見惚れながら答える僕は、七海の「環境が変わった」という言葉に引っかかりながら、気にしない風を装った。だって今、彼は僕だけを見ている。その瞳に僕の姿を映し、僕にお礼を述べている。
「言葉じゃ言い表せられないくらいだ。何かあったら、遠慮なく言ってね。何でもする。」
心が揺らぐ。それなら僕は、今とても君が欲しい。その白く細い腕を縛っても良いかい?その平たい耳をオイルライターで炙っても良いかい?君を飼っても、良いかい?ああ、異常愛。キスをしたいとか、セックスをしたいとか、そう言うんじゃない。ただ僕は、君の存在が愛おしいだけなんだ。
言い終えた七海は、笑ってハンバーガーに齧り付いた。
「はは、なんて、さ。食べようか。腹減っちゃったよ。」
七海が僕に笑いかけている。
楽しそうに僕に話しかけている。
幸せそうに。
気楽そうに。
もう君は、あの頃の君じゃない。
今僕の前で笑っている七海は、僕の好きになった七海では、ない。
七海の声を聞きながら、僕はこの時とても残忍で、冷酷な事を考えていた。

僕の日記は再始動した。ただし、内容は以前とは全く違う。比べ物にならないほどの異常な想いが、びっしりと細かい字で書かれるようになった。僕自身の日々の記録でも、七海のいじめられている様子の日記でもない。
僕がこれから毎日、七海にしていく事。
それはとても些細な事で、だけど酷く痛々しい事。そうする事によって、僕は七海を僕が好きになった頃の彼に戻そうと思ったのだ。
彼が傷付くであろう五つの事。
一、否定
二、無視
三、外傷
四、無理強い
五、嘘
こんなものか。
どれも小さな事だが、今までの彼の人生から、これらはどれも強烈に彼の心を引き裂くであろう。
そんな彼を見たい。苦しみ抜いて、どんな結果を出すのか、知りたい。
美しいだけでは、駄目なんだ。彼には酷な運命が、よく似合う。
痛がる君が、
悶える君が、
涎が出るほど、愛おしい。

「昨日の話だけどさ、」
翌朝、昇降口であった七海に話を切り出した。彼は真剣な面持ちで、僕の言葉に耳を傾ける。
「君は一体、どこに居場所を見付けたの?」
一瞬、彼の顔が青くなった気がした。目が泳ぎ、声が出ないようだ。僕の顔を見てはいるが、僕は彼の目を見ず話した。
やっとの事で絞り出した声は、震えていた。
「何…、」
「え?聞こえない。」
そんな訳ない。いくら掠れていたとしても、今僕達の周りには誰もいないし、廊下の反響で実際よりも大きく聞こえるはずだった。
つまり、僕は計画を実行したんだ。
彼の瞳は焦りと悲しみの色を宿した。そう、その姿が見たかったんだ。嬉しさが湧き出るのを抑えて、無表情を装った。
「それは…、」
彼の言葉は、予鈴の大きな鐘の音で掻き消された。僕らの会話は、それを合図に終了した。その音は、彼の心を余計に乱したのだ。偶然が、彼の傷を広げる結果となった。

最近はずっと七海と帰っていた僕だったが、今日は高松さんと帰路についた。なんて事はない。計画の実行と、彼女が僕を誘ってきたのが丁度良かったからだ。
終始笑顔で喋り続ける彼女。とても楽しそうだが、僕は退屈でたまらなかった。彼女の話は単調でつまらない。テレビの話、芸能人の話、友達の話。今時の女子高生の、くだらない話題。
あからさまに深いため息をつくと、彼女の口は閉じられた。
「ごめんなさい。私、ずっと喋りっぱなしで、つい浮かれちゃって。」
「いや、いいよ。僕話し下手だから。」
話し下手だが、聞き下手でもある。すると彼女は、僕の台詞をキッパリと否定した。
「嘘。だって土田君と話している時は、もっと楽しそうで、星野君もたくさん喋ってるもの。」
よく見ているな。対象が智って言うのもアレだが。
「星野君。」
細い眉毛をきりりとあげて、僕に詰め寄る。吊り上がった目が、彼女の気の強さを現している。
「私の気持ち、気付いてるんでしょう?」
まあね。あんなに分かりやすい態度を取られたら、誰でも気付くだろう。
「あなたが、好きなの。」
「そう。」
そっけない返事に、彼女は困惑していた。
「そんな、返事っ…!」
「悪いけど、」
彼女の言葉を妨げる。「僕は君の事、特に何とも思ってないから。」
俯いたまま、黙ってしまった。振られた女の反応としては、当然か。
でも、仕方ないじゃないか。僕は本当に、君には無関心なんだから。そんな悲しそうなオーラを纏って同情を促されたって、どうしようもない。可哀想と言う気持ちすら湧かない。
「好きな人、いるの…?」
「そうだな。いると言えば、いる。」
「付き合ってるの?」
「いいや。」
片恋ではないけどね。彼は僕に感謝をし、何でもすると言ったくれたし。
「じゃあ、私があなたに抱いて欲しいって言っても、迷惑はかけないわよね?」
思わず目を見開いた。耳を疑った。いくら僕でも、そんな事を言われたら驚く。君はそうまでして、僕と愛し合いたいのか。
「抱いて、お願いよ。」
そう呟き、抱きついてきた。背筋を悪寒が走る。必死で引き剥がそうとしたが、思ったよりも力が強く、僕にはどうすることも出来なかった。
結局、彼女は僕を解放してはくれず、自宅へと引っ張り込んだ。
部屋に入るなり鍵をかけられ、僕は逃げ場を失った。
綺麗に片付いた部屋。ピンクの小物が多い、女の子らしい部屋。そんな場所の真ん中で、彼女はおもむろに服を脱ぎ捨て、下着姿になる。そのまま僕の側に来て、僕のシャツのボタンも外し始めた。慌てて腕を掴み、手を止める。
「着たままがお好み?」
「違っ、そうじゃない。君とやる気なんて、これっぽっちもないんだ。」
しかし彼女はそんな僕の言葉には耳を貸さず、ならばとその場にしゃがみ込み、僕のズボンを下ろす。そうして剥き出しになったものを口に含んだ。ゆっくり、しっかりと。
最初は焦った。これでもし感じて射精でもしてしまったら、面目丸潰れだ。振った僕の方が格好悪くなってしまう。そう心配していたが、それは無駄に終わった。
声が出ないよう必死にシャツを噛んで声を殺したが、しばらくすると、何ともないことに気付いた。感じないのだ。
今まで何人かの女と経験はしてきた。僕がそう言う病気じゃない事は証明されている。彼女の舌使いだって、決して下手ではない。しかし、僕には快感が来ない。
なぜか。考えた末に、頭に浮かんだ。
七海だ。
彼のことを考えただけで異常な欲望は湧いてきたのに、彼女にはそれがない。今の僕の性感帯は、七海だけなんだ。彼と繋がりたいとか言うんじゃない。存在自体が、僕にとってのポルノなのである。僕のサディスティックな衝動を生んだ彼だけが、今の僕を満足させられるのだろう。
僕は彼女の激しく動く頭を掴んで止めた。彼女は口を離し、僕をじっと見た。
「なんで…?」
「ごめん。」
静かに、けれど冷たい声で言った。
「君はとても美人だ。女として申し分ないし、フェラも上手い。だけど、駄目だよ。君がどんなに舐めたって、腰を振ったって、僕は勃たないし感じない。君に魅力を感じないんだ。」
下半身をしまい、鞄を持って身支度した。
「鍵、開けてくれるよね?」

さすがに言いすぎただろうか。最後の高松さんの表情を思い出し、僕は珍しく反省した。泣いていた…気がする。確かにあんなの、とても惨めだ。でも、これだけは僕にはどうしようもできない。
気付けば夕日は沈みかけ、真っ赤な光が僕を包み込んでいた。
「こんにちは。」
突然、声をかけられた。甲高い、女の子の声。聞き覚えがあったので振り返ると、そこにはおさげの少女。手首には包帯ではなく、銀の鎖のブレスレットがつけられていた。あの子だ。
「会えて良かった。今日は自転車じゃないんですね。」
午後は雨が降ると言われていたので、歩いてきたのだ。しかし、天気予報なんて外れるものだし、傘を学校に忘れてきたな、と思い出す。明日がもし雨だったら、仕方がない。濡れて行こう。
「疲れた顔してますね。大丈夫ですか?」
「うん、まあ、色々あってね。」
少女は特に興味もなさそうに、ふうん、と溢すと、左手の鎖を触った。
「あの、」
にっこりと眩しいほどの笑顔で、問いかける。
「これ、ありがとうございました。本当に嬉しくて。今度会ったら、お礼をしたかったんです。ピアスはお嫌いですか?」
「ピアスね…。」
僕は耳元の髪を掻き上げ、耳を見せる。
「生憎、開いてない。」
それを聞くと、少女は再び笑い、ポケットから四角いものを取り出し、カチャカチャと音を鳴らした。耳に穴を開ける道具だ。
「ピアッサーなら、あるんです。実は、あなたのその綺麗な瞳にぴったりなピアスを見つけて…ぜひ付けて欲しいんです。」
「へえ、それはそれは。」
「これ。」
取り出したのは、禍々しいほどに赤いピアス。鮮血のような、今日の夕日のような、電波塔のライトのような。
「黒く澄んだ瞳に、よく映えますよ。」
確かに、サドの僕に血の色はぴったりだ。しかし、よく知らない子供に穴を開けてもらうなど、やはり怖くて、断ろうと少女の顔を見る。
無理だ。
その目はキラキラと輝き、絶対に開けたいというオーラを醸し出していた。断ったら、泣いてしまいそうだ。覚悟を決めよう。耳に穴なんて、大したことない。いざとなったらすぐに塞がるだろう。
僕が了承し、少女のやりやすい高さまでしゃがむと、耳にピアッサーを当て、意気込んだ。
バチン、と鈍い音が響く。
いやいや、安請け合いするもんじゃあない。思ったものより何倍もの激痛。僕はしばし言葉を失った。右耳はジンジンと熱い。
そんな僕を少女はけらけらと笑って見ていた。その少女の左耳には、僕と同じ赤いピアスが、きらりと光っていた。

髪は耳が隠れる程度の長さはあったとは言え、やはり赤は目立つもので、真面目で通っている僕がピアスをしていることはクラスの人間や友人──七海も含めて──は驚きを隠せなかった。
「星野でも、ピアスなんて開けるんだね。」
「いけない?」
「ううん。よく似合ってる。格好良いよ。」
「それは、口説いてる?」
「バッカ!そんな気ないよ!」
七海は言った。少女と同じ事を。
「綺麗な瞳によく映える。」
あの二人は似ている。だから僕にあんな衝動を起こさせるのか。
高松さんは僕を避けた。まあ、当然か。
馴れ馴れしいのは例によって智。右耳を見るなり、「お、お揃いじゃん♪」と言う。お揃いなんてなってたまるか。お前は左だろ。青いだろ。
「その赤には、なんか意味でもあんの?」
「別に。目の色に似合うからってだけらしいよ。」
「は?よく分かんねえな。」
「って言うか、ピアスにいちいち意味なんてあるのかよ。じゃあお前の青は、なんの青だ?」
「俺?の、は───…。」
口籠る智。自分から振っておいて、濁すなんて意味が分からない。左耳をしきりに触り、もごもごと喋る。よく聞こえない。
「青…は…、星、なんだよ…。」
「え?」
「星なんだよ!空に光る!」
どう言う意味だ。なぜ星を耳につける。何かと掛けているのか。単純に、星が好きなのだろうか。
いや、ちょっと待て。なんとなく読めてきた。
智は、僕の事が好きである。僕は以前から、それに気付いている。そんな僕の名字は───星野。
「圭吾、分かるだろ…?」
残念ながら、分かってしまった。
彼はゆっくりと顔を近付け、僕を見る。僕は目線を逸らし、周りを確認した。幸い、誰もこちらを見ている人はいない。
「智。」
僕は小声で彼の名前を呼んだ。
「屋上行こう。」

屋上に出るなり、背中から抱きしめられた。驚きで汗が吹き出す。最近、心臓に悪いことばかり起きるな。
智と僕は身長がさほど変わらないので、彼の顔がとても近い。吐息が耳にかかる。耳元で僕の名前を囁く。この状態では、何をされるか分からないので、早く解放されたい。
「圭吾、俺、お前の事好きなんだよ。」
「知ってる。だから離して。」
「圭吾は俺の事なんとも思ってないだろうけど、」
「うん。どうでもいいよ。さっさと離して。」
「キスしたい。」
「いやだ。離してってば。」
しばしの沈黙。彼は僕の言葉に困っていると言うよりは、僕を抱きしめている腕をどうしようか迷っているようだった。こんな受け答えは、毎日一緒にいる彼は慣れているのだろう。恐らくは、予想済みだ。
「圭吾、俺の事、嫌い?」
ああ、嫌いさ。本当はずっと君が嫌いだった。何かと喚いて、小さな事にも大声で笑い、騒ぎ、本能の赴くまま、ちっとも抑えようとしない感情。明るさ。そう言うところが、大嫌いだった。
それは、僕とは正反対のもの。
なんで一緒にいたかって?利用していただけさ。自分と真逆の人間の側にいれば、僕の暗い部分を隠してくれる気がしたから。誰だって良かったんだよ。僕みたいなやつでなければ。
今まで一緒にいた友人は、友人と呼ぶのも億劫なくらい嫌いな奴ばかりだった。そいつらは僕を「親友」と呼んだ。僕はそいつらを「他人」と思った。僕以外はみんな下衆。同じ人間でいるのも穢らわしい。
ああ、だけど、七海。君は別だよ。君はとても綺麗だ。だからこそ、傷付けたくなる。苦しめたくなる。君はまるでガラスのように、脆く、儚く、美しい。
それに比べて智ときたら、君はまるで鉄筋だ。鈍く、しぶとく、邪魔くさい。目障りだ。さっさと壊れてしまえばいい。
───そうだ。さっさと壊れてしまえばいい。
「智。」
冷たく、はっきりとした口調で彼の名前を呼んだ。
「僕、お前のこと嫌いだから。今ので、お前が僕のことをそう言う風に見ていたって知って、もっと嫌になったよ。好き?キスしたい?気持ち悪い。最低だよ。」
そうして、彼の左耳を掴んだ。
「これも、もう二度と付けてこないでよ。」
呆然と立ち尽くし、何も言えない彼の腕をすり抜けるのは容易な事だった。力が抜け、その場にしゃがみ込み、涙がぽたぽたと落ちているのが、地面のシミで見てとれたが、気付いていないフリをした。あえて無視をし、彼の心の傷を一層深くする。
そうすることで、彼をどんどん壊していった。
「今ここで、それ外して。この一秒一秒も勿体無い。君が僕を想っていると考えただけで、吐き気がする。」
智は俯いたまま、黙ってピアスを外し、投げた。青く光るそれは、視界の隅に飛んでいった。
彼の独占していた唯一の星は、僕の言葉によって失せてしまった。
「まあ、本音を言うと、」
これは彼に最も深く突き刺さった言葉に違いない。
「ピアスじゃなく、君が消えてくれたら、申し分ないんだけどね。」
耳を疑い、僕の顔を見た彼の瞳は、驚きと不安と恐怖が入り混じり、揺らいでいた。僕は相変わらず、氷のような目で彼を見下ろす。
死ねばいい。
お前なんか、シネバイイ。
智はゆっくりと立ち上がり、鉄柵の方へ向かう。僕を見ず、ふらふらと、足取り重く。しかし、その道は着実に死へと続いていた。柵を乗り越え、一歩踏み出せば、さあそこは新天地。
「バイバイ。」
彼の姿が消え、風に乗った涙が僕の頬に当たる。タイミングを見計らったかのように強い風が吹き、女生徒の大きな叫びは掻き消された。
僕の嫌いな友人は、心も身体も壊れてしまった。
 
「圭吾、あんた大丈夫なの?」
「何が。」
「智明君のことよ。お通夜も行かないで。そりゃあショックだろうけど、やっぱり…、」
「うるさいな。良いんだよ、別に。」
「良くないわよ。ちゃんと最期の挨拶くらい、しなさいよ。」
「したよ。」
「はあ?」
「とにかく僕、お通夜も葬式も行く気ないから。」
「何それ!ちょっとあんた、」
「そう言う事、バイバイ。」
一方的に姉との会話を終了させ、電話を切った。
なんだろう。ため息ばかり出る。気分が浮かない。
僕は智が大嫌いだった。そのはずなのに───なんなんだ、このシケた空気。やはり僕も人間で、罪悪感に押し潰されているのか。
気に食わない。非常に気に食わない。
さっきから、貧乏揺りが止まらない。落ち着かないんだ。だめだ、だめだ、だめだ。何とかしなくては。
その時、切ったばかりの携帯電話に着信が入った。軽快な音楽が鳴り響く。アイコンの海は、あの人のもの。
七海。
もし君が、もう少し経ってから電話をかけてきたのなら、あるいは助かったかもしれないよ。この時の僕は、きっと自分を正当化したかったんだと思う。僕は何も悪くないって。誰かに当たりたくて、仕方なかったんだ。

彼が僕の家に着いたのは、それから三十分後。
息を切らして玄関に立ち、汗を拭う彼を見て、僕が今からしようとしている事を考えると、思わず生唾を飲んだ。それでも何とか、哀愁漂う顔をして、悟られないよう振舞う。玄関横の鏡に映る右耳のピアスは、こんな時にも憎らしいほどに赤く、まるで僕の心の醜さを映し出しているようだった。
七海を家に上げ、玄関の鍵を掛ける。今夜は両親は二人で出掛けている。夜中まで帰らない。
二階の自室に入ると、こちらも念のために鍵を掛けた。しかし、そんな状況でも、七海は僕の暗い顔を見て、同情するように優しい言葉を投げる。
「顔色、悪いね。やっぱり。大丈夫?」
もちろんだよ。君が来てくれた時から、僕はとても元気さ。心は今、君のこれからの事ではち切れんばかりにわくわくしているよ。
僕は静かに、重く、口を開いた。
「七海。」
彼は僕を見て、返事をする。「何?」
「君、言ったよね。僕のために何でもするって。」
「うん。」
「それは、今も言える事?」
「もちろんだよ。あの時の恩は、いまだに心に残ってる。」
自分の胸に手を当て、彼は言った。
「そう、それじゃあ、」
僕は突然、七海の方を振り返り、彼の前髪を鷲掴み、そのまま身体を壁に打ちつけた。背中に痛みが走った彼は、顔を歪めて僕を見た。一体何事かと不安に揺れるその瞳は、僕の心を荒れさせる。
「七海に、僕の印を刻ませてよ。」
不敵な笑みを溢して出した声は、自分でも驚くほどに冷たかった。
「手始めに、お揃いのピアスを開けてあげる。」
そう言って、ズボンのポケットから、とても安全とは言い難い安全ピンを取り出す。月の光で光るそれを見て気付いた。そういえばこの部屋、電気を点けていなかった。
「ほ、星野、やだっ…!」
目の前に出された針を彼は恐怖の涙でいっぱいにした瞳で見つめていた。それでもやはり、彼を美しいと思うのは、錯覚だろうか。
七海の綺麗な形の平たい耳たぶに、ぶすりと突き刺す。声にならない叫びが、彼の口から漏れた。僕は貫通した針をゆっくりと抜き、滴る血を舐め掬った。鉄臭い。これが、七海の味。
横の棚から小さな箱を取り出し、ぱかりと片手で開ける。彼の名のように青く輝くガラス石。
智の遺品の、青いピアス。
屋上を出る際、足元に落ちている事に気付き、持ち帰ったのだ。美しい。星というより、海に近い深い色。これこそ七海に似合うのではないだろうか。
まだ熱を持つそこに、ピアスを押し込んだ。痛そうに目を瞑っている彼がまた、愛おしかった。
髪を掻き上げると、僕と名付けていた智のピアスは、七海の左耳で煌めいていた。彼の白い肌に、透き通るように、似合っていた。
それから僕は、早川とは比べ物にならない苦痛を七海に与えた。
髪を毟り、ライターで熱したピンで腕に十字を描く。殴って、蹴って、それから───…。
「本当は君の事、とても気に食わなかったんだ。」
外傷、無理強い、そして嘘。
どのくらい痛めつけたか分からない。彼の苦痛に歪む顔に、快感を求めた。しかし、不思議だ。それは一向にやってこない。
七海は全く声を出さなかった。黙って僕の暴行に耐えていた。目から涙を流しながらも、口を真一文字に結び、決してやり返そうとはしなかった。
なぜだ。
僕はこんなに酷い事をしているのに、どうして君はそれを当たり前のように受け入れるのか。いくら同情の余地があるとしても、さすがにこれはおかしいとは思わないのか。
手が止まった。やる気を無くした。そればかりか、涙が溢れた。泣いたんだ。この僕が。
七海は動きの止まった僕を見上げ、何事かと驚いていた。彼の横で俯いて、嗚咽を漏らした。今、彼の目の前にいる僕は、サドなんかじゃない。後悔の塊だ。
僕は今まで、人に何をしてきたのだろう。高松さん、七海、そして智。皆僕を好いてくれて、優しい言葉を掛けてくれた。それなのに、僕は彼らに何をした。ただ、良いように利用して、傷付けて、ゴミのように扱って。挙句僕は、言葉によって一人殺してしまった。僕を理解し、うざったいほど好きと言ってくれた智を僕は言葉のナイフで切り刻んだんだ。
あれは、自殺じゃない。他殺だ。
ごめんなさい。ごめんなさい。
今更謝ったって、遅い。僕は今、七海までも壊そうとしていたのだから。
許される資格なんて、無い。今度は僕の番だ。傷付けられ、捨てられる。当然の報い。
「星野…。」
弱々しい声が、僕の名前を呼ぶ。顔を上げると、弱々しくも笑う七海が、僕に優しく話す。
「大丈夫、君は悪くないよ。」
彼の微笑み。その一言に、涙が止まらなかった。きっと彼は、僕の心を悟ったわけではない。智という友人が死んで情緒不安定になってしまったのだろうと推測したに違いない。だから、これは仕方のない事だと。
彼の薄い胸板に顔を埋め、ただただ泣き叫んだ。彼は僕の肩を優しく抱き、僕が彼にした残酷な行いを許してくれた。
嫌いになって当然なのに。恨み続けて、当然なのに。今ここで殺してくれた方が、いっそ楽だ。
それでも、七海は言ってくれた。
「君は僕の恩人だから。それでも一緒にいてほしいんだ。」
生きようと思った。優しくなろうと思った。苦しくても、辛くても、僕は人に優しく生き続けて、罪を償わなければならない。真っ赤なピアスは、智を忘れないために交わされた契りなのかもしれない。
七海の左耳には、その白い肌に映える青いピアスが光る。それはまるで、僕を許すと言わんばかりに、ただ海の如く青く輝いていた。