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僕は、大雑把なO型という概念を取り除くほど、マメなところがある。好きなテレビ番組は観ながら録画するし、男のくせに部屋は二日に一回は掃除機をかける。メッセージの返信なんて出来る限り十分以内には返すようにしている。
その上、小学五年生からつけている、この日記。一度も絶やした事はない。分厚いキャンパスノートは、数えたら何冊になるだろう。押し入れに隠された、僕の七年分の記録。我が事ながら、その量には驚かされる。
いや、最近の日記は、「我が事」なんてほとんど書いていない。綴るのは、いつも「彼」についてばかり。多分「彼」は僕を知らない。時々朝の挨拶をする程度しか、接点はない。選択授業は一緒だったっけ。まあ、そんな事はどうでもいい。どうせ「彼」には僕の印象なんて、足元を這う蟻のように、影の薄い存在なのだから。蟻に失礼か。
それは好意か。いわゆる愛かと問われれば、考えてしまう。愛といえば愛。恋といえば恋。
近くにいれば目で追うし、空気を感じれば振り返ってしまう。もし、どうしても色恋に例えるならば、「異常愛」。「彼」の記録をつけてしまうくらいに、僕は「彼」の全てが気になって仕方ない。
二年三組。出席番号十九番。七海 藍。僕は、彼に興味がある。
容姿がどうとか言うんじゃない。確かに可愛い顔をしているが、違うんだ。僕が気になるのは、彼の「立場」。その「環境」。
のび太くん。村八分。言い方はいろいろあるけれど、一般的に彼がされていることを世間はこう呼ぶ───いじめ。
なんと嫌な響きだろう。たった三文字の濁り音。
七海は、この言葉に縛られているのだ。
僕が気付いたのは、ふた月ほど前、以前見かけた時には仲良く歩いていた同級生、早川翔に、階段から突き落とされるのを見た時から、彼らの間のキレツを知った。
不敵な笑みで、落ちた元友人を見下す早川。痛みに耐え、痣を押さえて早川を睨みつける七海。そんな、痛々しいとしか言いようがない現場にも関わらず、僕はその時の七海がとても色っぽく見えた。きりとした目元も、半袖から剥き出した白い腕に浮かぶ青痣も、乱れた黒い髪も、全てが魅力的だった。
その日から、気にするようになった。七海への同情は、ない。むしろ、もっと痛みに耐え忍ぶ彼を見たくなってしまった。限界ギリギリまで我慢する彼を記録したくなった。
ああ、やっぱり異常愛だ。自分でも、気持ち悪いと思っている。でも、駄目なんだ。過去の彼を読み返して、笑いが止まらない自分がいる。興奮する。息を荒げる自分がいるんだ。
絶対的に非があるのは早川なのだが、僕も早川と同じ立場にいるのかもしれない。もっとやれ、もっと、と心の中で呟く。君の苦しむ姿をもっと見たい。もっと書きたい。
「圭吾、あんた最近どうなの?」
学校帰りに一人暮らしの姉の家へ寄った。ホステスで生計を立てている美香姉さんは、たまの休みは一日熟睡。寝溜めするのはいいが、日用品の買い物をする時間もないので、僕をアゴで使うのだ。生理用品まで僕に買わせるのは、さすがに勘弁してほしい。
「何が?」
台所用洗剤をボトルに詰め替えながら、聞き返した。どうせ受験の事だろうとは思ったが、あえて言葉を濁した。
姉さんは、外国製の名前も知らない細長いタバコをふかし、煙を吐く。すっぴんのホステスほど味気ないものはない。
「そりゃあ恋とか…色々あるでしょ。思春期なんだから。」
ボトルから洗剤が溢れ、手にベトベトの液体がかかった。意外な質問に、驚きを隠せない。
「いないの?彼女…は、あり得ないか。好きな子とか。」
失礼な聞き方をする。僕にだって彼女の一人や二人…やめた。虚しくなってくる。最近、三ヶ月付き合った女に振られた僕には、痛い質問だ。理由は、「星野くん、ちょっと女々しい」だそうだ。
「残念ながら。」
「まあ、予想はしてたけどね。」
分かってたなら聞くなよ、という言葉は飲み込んだ。
「もうこの際、男に移行しちゃえば?」
「考えておくよ。」
幸いな事に、僕は七海に「異常愛」を注いでいるしね。多分、向こうから願い下げだろうけど。こんなストーカー。
落ち込んでいるように見えたのか、姉さんははあ、と息を吐き、身体を起こす。
「仕方ないな。あんたに、良い物あげる。」
姉はそう言うと、棚の引き出しの奥から何やら重厚な箱を取り出してきた。細い指でパカリと開けると、中に入っていたのはシルバーのブレスレットだった。細い鎖の様な形をした、なかなかお洒落な物だ。買ったら高いだろうな。
「どうしたの、これ。」
恐る恐る訪ねる僕に、姉はくすりと笑う。やばい客から貰った物ではないだろうか、と心配になってしまう。
「アクセサリー作ってる友達に貰ったのよ。自分でデザインしたけど、失敗作だからって。でも、男物でしょう?私には似合わないのよ。」
そう言って、姉はその骨が浮きそうなほど細い腕を触る。確かに、その腕では、鎖はただの拘束具にしか見えないだろう。
僕はその鎖をじっと見て考えた。このブレスレット、七海のあの綺麗な腕に付けたら、どんなに良いだろう。喉が鳴る。そそられる。生唾を飲んでしまう。妖しい色香を漂わせてくれるだろう。アブノーマルな想像が、脳内を駆け巡る。
自分の腕にはめてみるものの、中途半端に日焼けした肌には、お世辞にも似合うとは言えなかった。銀色の光が蛍光灯に反射し、キラキラと煌めいたが、その光は僕の腕を一層不憫に見せる。
「まあ、使わないよりは…その方が良いし…。」
あやふやな感想だ。姉なりに気を遣っているのだろうが、その言葉は僕の気持ちを楽にするどころか、傷を深くした。
「どうも。ありがたく頂戴しておくよ。」
そう言って、それを箱にそっと戻した。

昨夜、例のブレスレットも入った箱の蓋を開けたり閉めたりしながら、様々な妄想を巡らせていた為、朝から廊下で七海を見かけた時は、思わず身を隠してしまった。どうやら僕にも、まだ罪悪感というものが残っていたようだ。
腕はセーターで隠されていて見えない。その代わりと言ってはなんだが、細い首筋は剥き出しで、意識せずとも見入ってしまう。自分の腕に付けられた鎖を指で弄りながら、腕よりも首の方が似合いそうだな、なんて邪な考えが過る僕は、朝っぱらから色情魔だなと思う。
職員室の前で足を止めた彼は、「失礼します」とその少し高い声で言い、中へと入っていった。彼がよく担任から呼び出されるのは知っていたが、こんな時間からなんて、珍しいな。大抵は、その日一日に早川にされて出来た怪我の事で、放課後近くに行くことが多かった。昨日、僕の知らないところで、彼に何かあったのだろうか。盗み聞きしたかったが、用もないのに職員室に入るわけにもいかず、断念した。
朝の教室の喧騒は苦手だ。世界を遮断するように、イヤフォンを付ける。携帯電話から流れる音楽が、僕を安心させてくれる。
「おはよう、星野くん。」
毎朝声をかけてくる彼女。どうやら僕に気があるらしい。高松さんの高い声は、耳障りだ。音楽にのめり込んでいるふりをして、素っ気ない態度をとった。それでも、僕に返事をされただけで嬉しいのか、友達らしき女子ときゃあきゃあ騒いでいる。本当に、うるさい。
席につき、教科書を正していると、高松さんが再び近寄ってきた。なんなんだ、一体。
「あの、星野くん。」
「何。」
目を合わせずに、答えると、彼女は少し小さな声で、ぼそぼそと尋ねてきた。聞こえなくて、イヤフォンを外すと、煩わしい声が直接耳に届く。
「その、ブレスレットは、誰かから貰ったの?」
どうやら彼女は、僕の手首の見慣れぬ鎖を目にし、恋人でもいるのではないかと不安になったらしい。どうして女ってものは、男の装飾品を女からの贈り物だと決めつけるのだろう。だから、最近振られたんだって。しかし、そんな事実を彼女が知るわけもない。心の中で舌打ちした。
「姉さんから、貰ったんだ。」
その言葉に彼女は心底ホッとした様子で、素敵ね、似合うわ、と褒め称えた。お世辞なんていらないよ。似合ってない事なんて、僕が一番分かってる。しかし、卑屈な返事をしても評判が落ちるだけなので、見え見えのお世辞に、ありがとう、と素直に返事をした。
君に言われたって、ちっとも嬉しくない。君に話しかけられても、僕の心は踊らない。今、僕が愛を注いでいるのは、七海、彼一人だけ。
僕は、一途なんだよ。今は彼しか見えていない。異常愛?もしかしたらこれは、純愛なのかもしれない。…と、自分の気持ちを美化してみたりして。結局側から見たら、気持ち悪いのに変わりはない。やっぱり恋なのかな、これ。
海外では認めてくれる国もあるし、自分が同性愛者でも構わない。でも、男なら誰でも良いってわけじゃない。他の野郎どもを見たって、一向にそそられない。七海だけなんだ。僕の心を乱すのは。彼相手なら、マスターベーションもできるのかもしれない。
なんて、気持ち悪いな、僕。
こんな僕には友達はいるのかと心配してくれる人もいるだろうが、生憎日本には「類は友を呼ぶ」なんて言葉もあるくらいで、僕はその代表と言えよう。
僕の席から遠く離れた前の方に座っていた彼は、僕が一息ついた事に気付くと、僕の名前を慣れ慣れしく呼び、近付いてきた。ボディタッチが友情の証だとか言って、やたらと触ってくる。顔だけは良い彼は、いつも女を取っ替え引っ替え。土田智明。僕の唯一の友達で、唯一のアホ。左耳の青いピアスが、きらりと光る。
僕の机に両手を置き、顔を覗き込むようにして挨拶する。綺麗に整えられた眉。茶色く染められた長い前髪の奥で、切長の目が僕を見つめる。男の僕が言うのもなんだが、なかなかの男前。
「おはよう、圭吾。」
顔と同じで声まで良いんだから、非の打ち所がないように見える。今にもキスしそうなくらいに近い距離で話す彼とは、僕は気楽にいられる。彼の女癖の悪さが、僕の暗い部分を隠してくれているような気がするから。
「おはよう、智。」
「なあ、圭吾。そろそろ美香さん、俺に紹介してくれよ。」
「そうしたら、お前僕のこと絶対弟として扱うだろ。」
「大人の魅力ってやつも、経験したいのになあ。」
「だからって、なんで僕の姉さんなんだよ。」
「いや、一番手近だから?」
失敬な。水商売を馬鹿にするなよ。なんて、僕が怒ったって仕方がない。こんな他愛もない会話、日常茶飯事。僕らの仲なんて、こんなものだ。くだらない話題でしか繋がれない。
「ところでさ、」
智は、僕の手首に視線を落とし、指で差した。「どうしたの、それ。」
「ああ。」
彼に見えるように腕を上げて、答える。
「お前の愛しの美香姉さんから貰いました。失敗作だってさ。」
「へえ。社会への適応能力ゼロのお前には、失敗作、なんてピッタリじゃん。」
「人のこと言える立場か。良い加減女遊びやめないと、いつかでかいツケ回ってくるぞ。」
「ご心配どうも。」
昨夜、彼の友人とその彼女と3人でやったとかどうとかいうメッセージが来ていたのを思い出し、心優しい僕は、人間として最低街道まっしぐらの彼に忠告してやった。しかし、そんな忠告など、彼は軽く受け流すだけであった。多分、生まれ持った性格なのだろう。致し方ない。
智は自分の左耳のピアスをコロコロと指で弄りながら、腰掛けている椅子で舟漕ぎをする。僕は昔、あれでひっくり返って後頭部を血まみれにし、三針塗った経験があるので、嫌いだ。というか、怖い。
「なあ、圭吾。」
「うん?」
彼は独り言のような小さな声で、言った。
「もしよかったらさ、今度の週末空いてたら、買い物にでも付き合って欲しいなー、なんて…、」
彼がその台詞を言い終える矢先、始業の鐘が教室内に響き渡った。彼の言葉はその鐘によって掻き消され、僕は彼の期待する返事を返すことなく、授業が始まるぞ、と彼を自分の席へと戻した。
薄々、気付いてはいる。僕だって、そこまで鈍くはない。けれど、僕は君の想いには応える気は、更々無いよ。悪いけど、君みたいな節操なしに、興味はないんだ。
僕は手首の鎖を見つめ、他クラスのいじめられっ子の顔を頭に浮かべた。

その日の夕日は、とても綺麗だった。ただひたすらに真っ赤で、昼間の青空からは想像もつかない色だった。僕は自転車を漕ぐのを止め、思わず見入ってしまう。こういう気持ちも、一種の恋とは違うのだろうか。
そんなくだらない事を考えていたせいか、目の前を人が通った事に気付かず、のろのろと歩いていたのは幸いだったが、危うくぶつかるところだった。
ハンドルを曲げて避け、前輪がブロック塀に当たり、衝撃で身体が前のめりになってしまった。驚いて腰を抜かしているらしい相手を見下ろし、初めて気付く。
小学生の女の子だった。短いスカートから覗く白い足には、変なキャラクターのハイソックス。華奢な身体に重そうなランドセルは、似合わない。今人気のアイドルに似た、可愛い顔をしていた。おさげの髪を下ろしたら、その美しさが一段と際立つのではないだろうか。
いやいや、小学生の子供相手に、何を考えているんだ、僕は。
「ごめんね、大丈夫?」
優しく声をかけ、手を伸ばすと、少女はその手を素直に受け取り、立ち上がった。スカートの土埃をパンパンと払い、服を正しながら僕を見る。どうやら、怪我は無さそうだ。
「大丈夫です。ありがとうございます。」
黄色い帽子を上に向け、頭を下げた。黒い艶やかな髪が、さらりと落ちる。大人になったらどんな美人になるのだろう、と想像してしまう。
ふと目がいった、手首の包帯。赤黒い斑点が滲んでいるのを見つけた。
これは、あれか。もしや俗に言う…。
「じゃあ、さようなら。」
そう言って立ち去ろうとした少女の手首を掴み、おもむろに引き留めた。何故そんな事をしたのか、僕にも分からない。ただ、何となく。何となく、その手首の妖しい赤い斑点に惹きつけられてしまったのだ。
振り返った少女は、強く握られる腕の痛みに耐え、涙ぐみながらも、突然不審な行動に出た見知らぬ男子高校生を睨みつけている。気丈な瞳と、真一文字に結ばれた薄い唇。僕の中のサディスティックな衝動が、溢れてきた。僕は無意識の内に、少女を握る手に力を込めた。
びくり、と身体を反応させ、一筋涙を流す。それでも決して、声はあげない少女。僕の背中に快感が走った。
「う…、」
少女の唸りではっと我に返る。僕は一体、何をしているのか。力を抜いて、少女を解放した。理性が飛んだ途端、僕は異常な行動に出てしまったのだ。こんな事、社会的に許される筈がない。
変態男から手を離されたにも関わらず、彼女は手首を摩ったままその場から逃げようとはしなかった。そういえば、先ほども少し泣いてはいたものの、僕の手を振り払おうとはしなかったな。この子には、そう言う趣味でもあるのか。今時の子供は変わった子が多いとも言う。
しかし、今の僕にはそんな事はどうでも良かった。自分を疑った。こんな事をしてしまうくらいに、僕は落ちぶれていたのか。小学生を痛めつけて感じるなんて、ロリータコンプレックスにサドが加わってしまい、もう何も言えない。人として最低だ。
「ご、ごめんね。」
僕は俯き続ける少女に、慌てて謝った。自分でも、この行動を信じたくはなかった。少女は小さく頷いた。
自転車を直し、その場を去ろうとする。早く、早くこの子の前から消えてあげたい。消えてしまいたい。それが、この子の為。自分の為。
そう思って、サドルに腰掛けた時だった。ブレザーの裾が、何かに引っ張られた。どこかに引っかけでもしたのかと思い振り向くと、少女が僕の服をじっと見つめ、それから目線を腕に移動させて、呟いた。
「鎖…。」
「え?」
蚊の鳴くような小さな声だった。
「その鎖、綺麗ね。」
「あ、ああ。ありがとう。」
「欲しいな…。」
驚いて、少女の顔を覗き込む。顔を真っ赤にして、僕の返事を待っていた。瞬きも出来ないほどに、恥ずかしいらしい。
僕は優しく微笑み、腕のブレスレットを外し、少女の包帯で巻かれた手首につけてやった。それは白い色に映え、とても美しかった。少女の笑顔もまた、愛らしかった。
「ありがとうございます。」
深々と頭を下げ、少女は通りを歩いて行った。
なぜあんなものが欲しかったのか。僕にはてんで想像もつかないが、それでも良い。あんなに素敵な笑顔が見れたのだから。それに、あんな行動をしてしまった償いには、安すぎるくらいだ。礼を言いたいのは僕の方だよ、と少女の後ろ姿を見送った。
七海にあれをあげていたら、今のような笑顔を向けてくれただろうか。
違う。七海の笑顔を想い、首を横に振った。
僕の求めている七海は、そんなんじゃあない。僕の中で笑ったりしない。プレゼントを貰って、優しい空気に包まれたりしない。僕が彼に求めるのは、残忍な環境で、今にも壊れそうで壊れない、儚くも妖艶な美しさ。例えるなら、そう、アヒルの中の醜い白鳥。そしてそれは、一生自分を美しいものと気付かずに散っていくんだ。
彼が自分の強さに気付かない事を祈る。
彼には永遠に、傷付いていてほしい。悲しんで欲しい。歯を食いしばり、痣だらけの身体で、それでもどこか妖しく眩しく、しかしそれを自分では理解せずに生きていてほしい。
どこまでなら耐えられるだろうか。切り傷、火傷、打撲に骨折。散っても尚美しい深紅の薔薇の花弁の如く。死んでも切り刻まれても、きっと君は僕を虜にするだろう。僕の知らない場所で、僕は君の冷たくなった身体を抱きしめ、温もりを求める。
君と、友達になりたい。