悪魔憑き×エクソシスト2
イザベラが新しい悪魔に取り憑かれて、一ヶ月が経った。以前の淫魔よりもずっと強力で、癒着の強い悪魔らしく、どうやっても祓うことが出来ない私は、毎日の様に机の上に広げた資料を見ながら唸っては、イザベラに肩を叩かれた。
「心配しなくても、俺はなんともないし大丈夫だよ!」
右腕が黒く膨れ上がり、人とは思えぬ程の筋肉と爪で背中を掻きながら、大丈夫、と口癖の様に言う彼に、私は不安でならなかった。腕が悪魔になるのは、夜だけだ。昼間は手の甲に目玉の様な痣が浮かび上がってはいるが、普通の人間と変わらない。日が沈むと、その腕は異形のものへと変化する。
イザベラは、恐らく「悪魔なら自分の理性で抑え込めるから『大丈夫』」と言う意味で言っているのだろう。しかし、私の心配は、それでは無かった。
もしも、もしも他の退魔士に出会ってしまったら。イザベラごと消されてしまうのではないだろうか。昼間は痣を隠す為に手袋をさせ、彼が一人にならない様に手を繋ぐ。夜は外に出ない様、きつく言い聞かせた。私にとって、イザベラがいなくなると言う事は、この十年間の彼との思い出を全て取り払われてしまうのと同等で、怖くて仕方がなかった。
今日も机に、床に、資料を散らばせて、片っ端から解決策を探す。この宿に泊まってから、もう三日だろうか。あれから私達は、所在を転々とさせ、イザベラの父に、或いは他の退魔士に見付からない事を祈りながら、旅をしている。
悪魔の癒着、剥がす方法。聖水をかける。薬草を塗り込む。十字架を焼き付ける。全てやった。どうしたらいいのか、私の知識だけでは、もう分からない。
「先生。」
後ろから、黒く大きくなった腕で抱き付かれた。耳許で、イザベラの低く優しい声がする。背中に彼の体温を感じる。悪魔に憑かれても、体温は人と同じく、温かいままだ。私の顎をくいと持ち上げ、そっとキスをした。
「…今日は、もう終わりにしようよ。」
二十二年間取り憑かれていた悪魔のせいで赤い髪と瞳のイザベラ。その目に私は釘付けになる。美しい、薔薇の様な赤さだ。イザベラが私の邪魔をしてキスをしてくる時は、決まって私を抱きたい時。放っておかれて、少し拗ねているのだ。
黒い右手で私の服を器用に脱がせていく。こんな大きな手をどうやって操っているのか、不思議でならないが、彼にとって悪魔とは日常の一部であって、意識せずともコントロール出来るものなのだろう。
上半身を脱がせたところで、左手で胸を優しく撫ぜる。イザベラの、本当の手。この手が私は好きだ。爪は短くしており、私を傷付けまいとしているその健気な姿勢が、愛おしくて堪らない。
「ん…。」
「先生、ここ好きだったよね?」
胸の突起を捏ねられ、そんな事を言われたものだから、途端に恥ずかしくなって声を出すのを我慢してしまう。くりくりとそこを弄ぶ彼の顔をチラリと見ると、目が合い、にやりと口角を上げた。
「声、聞かせてよ。」
「んんっ…!」
「先生。」
頭を振って嫌だという意思を示すが、それをイザベラは許さなかった。きゅ、と強く摘まれ、途端に身体がびくりと跳ねる。指を噛んで堪えていた嬌声が上がる。
「先生、あんまり我慢するの、良くないよ。俺は、先生の可愛い声も、可愛い姿も、大好きだからさ。だから、」
右手を私の下半身に這わせ、強く握る。じわりと滲み出る液体が、服を汚す。
「一緒に気持ちいい事、しよ?」
涙目で彼を見上げ、唇を重ねた。
隣でぐっすりと眠っているイザベラの頬を撫でると、右手がぴくりと動いた。悪魔の反射なのだろう。危険を察知したら、すぐに動ける様に。
「必ず、救ってみせる。約束だ。」
聞こえていない筈の彼に、私は声を掛け、額にキスをした。起き上がって、部屋を出る。階下にある電話に手を掛け、ダイヤルを回す。相手は、まだ起きている筈だ。数回ベルが鳴った後、はい、と低い声が聞こえた。
「…助けてください。」
私の懇願に、相手は承諾の意を示した。
「何処に行くんだよ。」
旅支度を始めた私の姿を見て、半裸のままイザベラは水を飲む。呑気に伸びをして、また行くの、とあくびを交えて言った。
「近くだから、大丈夫だ。もう私だけの知識では、限界なんだよ。」
その言葉に、イザベラは顔を強張らせる。
「…誰かに、頼るの?」
「私の先生だ。」
何処の誰かも分からない退魔士よりも、ずっと信頼出来る。あの人なら、恐らく何か知っている。僅かな希望を持って、頼る事にした。
「先生の、先生?」
頷くと、はあ、と溜息を吐いた。
「まあ、それなら信頼出来るかな。」
服を探してベッドを漁る彼の背中に、小さな黒い斑点が浮かび上がっている事に、私は不安に押し潰されそうになった。
町外れの小さな木造の家には、様々な花や薬草が植えられている。どれも悪魔を寄せ付けないものばかりだ。奥の畑には、必要最低限の野菜が実っていた。扉を叩くと、現れたのは白髪まじりの男性。出会った頃よりも幾分歳をとっている。杖をついていることに気付き、自力ではほとんど歩けない事を理解した。
「お久しぶりです。」
「まあ、入りなさい。」
私の師匠、ルイス先生は元々足が弱かった。それでも、幼かった私に退魔の一から十を教えてくれたのは、この人だ。コツコツという杖の音が、今迄傍にいられなかった事を後悔させた。
ルイス先生は椅子に腰掛けると、大きな目をギョロリと動かして、私の後ろに立っているイザベラを見た。
「その青年か。」
イザベラの右手の痣を見せると、顎に手を当て、暫し考えた後、立ち上がって書棚に向かう。手を貸そうとすると、払われた。
「こんな歳になってもな、弟子に頼る程落ちぶれちゃいないのだよ。」
ルイス先生は、プライドの高い人だ。私はさっと手を引っ込めて、棒立ちのままその様子を見詰めた。イザベラが小さく「感じ悪い」と舌打ちしたが、黙って待った。
一冊の古い本を取り出すと、テーブルに開いたそれを私に見せる。
「メフィストフェレスの一部だろう。」
聞いたことがある。しかし、奴はヨーロッパの悪魔の筈だ。このアメリカにいる筈がない。
「…間違いないですか?」
「黒い腕、長い爪、痣も一致している。その小僧は、放っておけば魂も喰われるだろうな。」
「そんな!」
ガタリ、とテーブルを揺らしてしまい、すみません、と頭を下げる。調べても分からない筈だ。この国にいる筈のない悪魔だったとは、私の知識不足も甚だしい。
「そんなヤバいの?」
頭を掻きながら、呑気にそんな事を言うイザベラに、少し苛つきながらも、私は溜息を吐いた。
「魂を喰われたら、イザベラ、君はいなくなってしまうんだよ。」
「喰われたら、だろ?俺、そんな簡単に喰われねえよ。」
私の肩に腕を回し、そっと髪を撫でる。
「先生残して、死んだりする訳ないだろ。」
「死とは違う。」
ルイス先生が口を挟んだ。
「魂の死と、肉体の死は違う。メフィストフェレスの場合は、魂を食べ、肉体を奪い取る。お前さんの意思とは関係無く悪魔に操られ、周りの人々を襲うだろう。…愛する人さえもな。」
ちらりと私を見るルイス先生には、恐らく分かっているのだろう。私とイザベラの関係が。
ふうん、と気にした風もないイザベラは、本を手に取るとその悪魔の容姿をじっと見て、自身の右手を確認する。
「あのさ、先生の先生は知らないかもしれないけど、俺、二十二年間悪魔に取り憑かれてたんだよ。そんな簡単に操られる様な男に見える訳?」
「お前さんのその軽薄で危機感のない態度を見れば、すぐにでも魂を奪われてしまうと言う事くらい、私には分かる。」
「…馬鹿にしてんの?」
イザベラの右腕が少しずつ膨らんできたのに気付く。黒い斑点が広がり、悪魔の腕に変化していく。今迄は知らなかった。怒りが、悪魔になる引き金なのだと。
「イザベラ!」
肩を掴むと、右腕を振り下ろされ、壁に叩きつけられた。呻き声を上げると、その途端我に帰ったイザベラが、真っ青な顔をして私に駆け寄る。腕は、するすると縮み、元に戻った。
「ほら、見た事か。」
椅子に座ったまま、先生はイザベラにきつい言葉を投げる。
「慢心している様だな、小僧。一つ言っておく。そこいらにいる悪魔と、メフィストフェレスは桁が違う。お前さんがどうやってその悪魔に取り憑かれたのか、自分の意思なのか、そんな事は知らんが、お前さんの命より先に、近くにいる人間を殺してしまうかもしれない心配をするんだな。」
イザベラは、唇を硬く結び、俯いたまま動かなくなった。身体が少しだけ、震えている気がした。
「ルイス先生。」
イザベラの背中を摩りながら、私は先生に大切な事を尋ねる。
「これから、どうしたらいいでしょう。」
「切り落とせ。」
まさかの言葉に、言葉を失った。
「癒着が激しい。感情で現れるほどになってしまっては、もう手遅れに近い。腕を切り落として聖水をかけて焼くしかないだろう。」
「しかし、」
黙ったままのイザベラを見る。彼は、まだ若い。折角自由の身になった彼に、そんな酷な運命を辿ってほしくはなかった。
「…背中は、どうだ。」
「…黒い斑点が…少々…。」
杖を持ち、立ち上がるルイス先生は、イザベラをもう人として見ていない様だった。棚から一本のナイフを取り出す。美しい装飾の、銀のナイフだった。私の手にしっかりと握らせ、私が出来るはずもない事を言い放った。
「寝ている間に心臓を一突きだ。絶対に外すな。危険を感じたら、襲ってくる。」
ナイフを持ったまま、私は首を振る事も出来ず、ただ呆然と美しい銀に映る自分の青くなった顔を見ていた。
「それは?」
テーブルに並べた小瓶を見て、イザベラが尋ねた。
「睡眠薬と、鎮痛剤だよ。」
少しでも、痛い思いをしてほしくない。それでも、やらなければならない。私が、やらなければならないのだ。イザベラも分かっている。そう、と一言納得し、一息に飲み干した。
ベッドに横になり、私を呼ぶ。
「先生になら、殺されたって構わないよ。」
「殺されてもいい人間なんて、いない。」
ふふ、と笑うイザベラは、何故か穏やかだ。
「じゃあ、俺はもう人間じゃないんだ。」
溢れそうな涙を堪えて、彼の頭をくしゃりと撫でた。赤い髪は、柔らかく私の指に絡まり、名残惜しそうに張り付く。
「先生。」
何、と答えれば、上体を起こし優しいキスをする。額を合わせ、私の目をじっと見る彼は、もうとっくに覚悟を決めていた。
「好きだよ。俺の人生の中で、一番。誰よりも、何よりも大好きな、俺だけの先生。」
「ああ。」
「先生は?」
私の頬に触れ、もう一度キスをした。
「俺の事、少しは好きでいてくれた時があったかな。」
堪えていた涙が、目を閉じると同時に落ちる。泣かないで、と言う彼は、私の涙を舌で救い、眼鏡を外した。
「眼鏡越しじゃない先生が、見たい。」
ぼやけた視界に、イザベラの力ない笑顔が映る。視力のせいなのか、涙のせいなのか、彼の顔がよく見えなくて口惜しくなる。ゆっくりと横になった彼は、静かに目を閉じた。薬が効いてきた様だ。
胸を撫で、イザベラの鼓動を感じながら、私は呟いた。
「…愛していたよ。十年間、ずっと。」
ナイフを握る手に力を込め、振り下ろした。
眩しい日の光が顔に当たり、目が覚めた。朝が来た様だ。そのまま眠ってしまったらしい。枕の側に落ちている血塗れのナイフが目に入り、ああ、俺は死んだんだな、ここは天国だろうか、いや、地獄かも、と辺りを見回した。
しかし、そこは泊まっていた宿の部屋そのままで、違和感を感じる。死んだ筈の俺が、何故ここにいるのか。手の甲を確認すると、痣は消えていなかった。
悪魔祓いに、失敗したのだろうか。じゃあ、このナイフの血はなんだ。起き上がって、初めて気付いた。床に血を流して倒れている先生に。
「先生!」
飛び起きて、先生の身体を抱えた。口に耳を近付け、まだ息がある事を確認するが、とても浅く、今にも止まってしまいそうだ。どうしよう。どうしたらいいか分からない。不安で右腕が疼く。黒くなっていくそこを抑えるために、深呼吸をして落ち着く。
「…なんで、殺さなかったんだよ。」
先生を強く抱きしめると、ひゅうと息を吸う音が聞こえた。
「…私には、」
力の無い声で、先生は言った。
「出来ない。君を、殺せない。…愛してるから。」
「だからって、」
「君を殺せないのは、私の責任だ。私が死ねば、君が愛する人を殺した事に罪悪感を感じなくて済む。」
「先生のいない世界なんて、」
「…生きて、ほしい。」
俺の首に手を回して、髪をぎゅっと掴む。
「私は、今、薬草と聖水を飲んでいる。洗礼を受けた退魔士の私を食べれば、悪魔は君の身体の中で死ぬはずだ。少々痛みは感じるかもしれないが、きっと上手くいく。」
先生の横に落ちていた手紙が、目に入る。
「ルイス先生が教えてくれた、最後の手段だ。」
「食べるなんて、そんな事、」
「食べるんだ。食べなきゃ、君が悪魔に食べられる。」
必死に首を横に振る。涙が溢れて止まらない。
「嫌だ。絶対に嫌だ。先生のいない人生なんて、どう生きていけばいいんだよ。先生の為に、俺は、」
「大丈夫。」
髪を掴む手の力が抜けていき、ゆっくりと落ちていく。
「君は、きっと良い人生を歩める。私が愛した、赤いイザベラ。」
その言葉を最後に、先生は目を閉じたまま動かなくなった。俺は、先生の喉に口付け、歯を立てた。
町外れの家で、食事に洗濯、掃除に買い出し。こき使われてばかりだけど、ルイス爺さんは「これも修行だ」と言って雑用を押し付けた。
「クソジジイ。」
「黙れ、クソガキが。」
口の減らない爺さんに腹が立ちながらも、雑用の合間に書棚を漁って色々読んだ。弱い悪魔なら倒せるくらいの力はついてきた。これからだ。
「これを読んでおけ。」
ルイス爺さんが取り出してきたのは、ヨーロッパの悪魔についての本だった。分厚すぎて、眩暈がする。
「国外の悪魔にも詳しくならにゃ、お前の『先生』に顔が立たんぞ。」
「うるせージジイ。」
「文句があるなら出て行ってもいいぞ、青二才。」
先生の面子を守りたい。先生がくれたこの命を何かに役立てたい。でも、俺には方法が分からない。だから、ルイス爺さんを頼った。先生を食べた朝、そのまま爺さんの家の扉を叩いて、頭を下げてお願いすると、爺さんは大きな溜息を吐きながら、服を着ろ、と言って修行着を渡してきた。涙と血塗れの俺をよくもまあ家に入れたもんだな、と今にして思う。
「その首から下げたデカいもんが、邪魔してるだろう。修行中くらい外せ。」
爺さんはそう言ったけど、このペンダントは外せない。絶対に、外せないんだ。
洗濯を干しながら、空を見上げる。綺麗な青空が広がっていて、雲がゆったりと流れている。ペンダントを掲げて、光に当てる。
「見えるかな。」
先生が生きろと言ってくれたこの美しい世界。先生の目にも、きっと映っているだろう。
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