悪魔憑き×エクソシスト


昼時の繁忙期も過ぎた、静かなカフェ。私は1人壁際の席で、珈琲を飲みながら人を待っていた。実際、飲んでいたのは珈琲と云えどミルクをたっぷり入れた甘い飲み物だ。仕事着の黒装束に似合わず、私はブラックが飲めない。どちらかと言われれば、甘党だ。

約束の時間まで後5分程ある。待ち人はいつも10分は遅れてくる。此処のカフェはチーズケーキが美味い。15分もあれば充分堪能出来るだろう。

 

カラン カラン

 

そう考えている中、カフェの扉のベルが音を立てた。

背の高い、逞しい青年が入ってきた。赤茶色の髪は短く刈り上げられ、その髪に似合う茶色い瞳がきょろきょろと動く。

「やあ、イザベラ!いらっしゃい!先生なら奥にいるよ」

店主が私を顎で指して言った。

イザベラと呼ばれたその青年は、私を見付けるなりニッコリと嬉しそうな笑みを浮かべ、手を振った。

「先生!」

好物を出された猫のように、タッタと此方に向かって来る。普段なら遅れて来るのに、タイミングの悪い事。

「おっちゃん!珈琲!」

私の前の席に乱暴に座りながら、店主に言った。

それから私の顔をまじまじと見、ニヤニヤしながら話し出した。

「久しぶりに先生の方からのお誘いだったから、気合入れちまったよ。」

確かに、いつもTシャツにジーンズ姿の彼とは違って、ジャケットを羽織り小綺麗な格好をしている。彼の服からは、新しいもの独特の染料の匂いがする。

しかし、どんなに綺麗な格好をしても、隠し切れていない醜い痣が、彼の右手にはあった。黒々とした、禍々しいその痣からは、気が触れそうになるくらいの醜気を感じる。

しかし、それを感じるのは私くらいなもので、珈琲を運んできたウェイトレスは何も気にならない様子で彼に話しかけた。

「イザベラ、この間の話、考えてくれた?」

「この間?」

とぼけた顔をして答える。

「来週、店長の誕生日だから、プレゼント一緒に選んでって言ったじゃない」

「ああ、そうだっけ。ごめん。」

すっかり忘れていた、と言うふうに、片手を顔の前に持っていって謝った。

「いつだっけ?」

「今日よ!」

「それは、無理だな。」

すると彼は、自分の右手を私の左手にするりと伸ばし、優しく、ゆっくりと撫でてきた。

「今日は先生と約束があるから。」

その様子を見たウェイトレスは、仕方ない、と言う風にため息をつき、残念、と言い残して去っていった。

ウェイトレスが去った後も、しつこく手を撫でてくる彼に、私は言った。

「こんな場所で、やめてくれ。」

「何が?」

「右手で触ってくる事を、だ。君の右手は、その...

「先生、弱いもんね」

言い淀むと、勝ち誇ったかのように仰け反り、尚しつこく私の手に指を絡める。私は自分の顔が赤くなるのを感じた。恥ずかしいのではない。彼の右手には、常人にはないものがある。

 

彼が何故、男なのにイザベラと言う名なのか。何故右手に痣があるのか。それを説明するには、10年程遡らなければならない。

 

私が彼、イザベラと初めて会ったのは10年前。私がまだ退魔士として、独立したばかりの時だった。

修行を終え、一人前の退魔士となった私に初めて入った仕事が、イザベラの両親からの依頼だった。

彼の家は、街でも有名な大きな貿易商の社長だった。こんな名家で退魔士の仕事など、と思ったのだが、独立して間もない私には金が必要だったし、成功報酬は小さな悪魔なら100体倒しても稼ぎきれない金額だった。

豪邸に着き、案内されたのは、広いが可愛らしい部屋。天蓋付きのベッド。ピンク色の壁紙。女の子らしい部屋だった。その部屋の奥、真鍮の飾りの付いた机に向かって本を読んでいた少女。花柄のワンピース。髪は肩より少し長く、ウェーブがかった赤茶色の髪。後ろを赤いリボンで結んである。

しかし、そんな可愛らしい容姿からは到底似つかわしくない痣が、少女の右半身にびっしりと、黒々とあった。本来なら茶色であろう左目の瞳と違って、右目は赤黒く、人間とは思えなかった。

「イザベラだ。この子に憑いている悪魔を退治してほしい。」

主人にイザベラと呼ばれた少女は、椅子から降りて私に向かって一礼した。

「こんな格好をしているが、本当は男の子なのだよ」

目を疑った。どこからどう見ても、少女だったからだ。

「生まれた時からこの禍々しい悪魔の痣があってな。名家の跡継ぎの息子として噂にならんように、女の名を付け、こんな格好をさせている。」

確かに、主人の言う通りだ。大きな会社の跡継ぎが、悪魔憑きなんて噂が立ったら、会社の信用に関わる。娘に化けさせておけば、祓った後に死んだ事にすれば良い。突然現れた息子も、養子を取ったと言えば皆納得するだろう。

「まあ、しかし念には念を。この子は殆ど家の外に出した事はない。仕方無く出掛ける際は、帽子を被せているし、名前も家の者以外には知られていない。」

用心に越した事はない。流石会社を経営しているだけの事はある。抜かりがない。

私は目の前にいる少女の姿をした少年をまじまじと見た。この痣は...

「普段から家におられるんですね。でしたら、この子に襲われた人間が、何人かいるのではないでしょうか。」

「あ、ああ...

「見たところ、年の頃は1213か。痣は生まれつきあると仰っていましたが、襲われ出したのは最近ではないですか?それも、女性ばかり。」

何故それを、と言った顔で主人が私を見た。

間違いない。こんな格好をしているが、中身は男。そしてこの痣。

「淫魔、ですね。」

「やはり...

精通したと同時に淫魔としての力が出てきたのだろう。

「どうしたら良いか。淫な子どもが居るなんて世間に知れたら。」

「普通、淫魔に憑かれた者は、体液を相手の体内に出せば自然に悪魔ではなくなります。...しかしこの痣の大きさからすると、一度や二度では...

「どうにかならんのか。」

「男の淫魔なら、やはり女性の退魔士に頼むのが簡単でしょう。私の知り合いを紹介しますので...

「それは駄目だ!!!」

突然、主人は大声をあげた。

「なるべく人に知られたくないのだ!君にさえ依頼するのに躊躇したんだ。他の退魔士にまでなんて、考えただけで...

成る程。私はまだ修行を終えたばかりで、世間に名を知られていない下っ端。噂を広げない為にも、私を選んだのだろう。

それに女性の退魔士は数が少なく、殆どが政府に属している。面倒事を起こす悪魔には男性が多く、尚且つ権力を持った者に取り憑きやすいからだ。政府は女性退魔士を優遇している。

私は少し考えてから、主人に言った。

「分かりました。私がなんとかします。しかし、やり方を考えなければなりません。暫く息子さんと2人にしてくれませんか。」

主人はほっとした様子で、頼みます、と言って部屋から出ていった。

さて、ピンク色の部屋に少女のような少年と2人きりになった私は、鞄から分厚い本を取り出し床に並べ、調べ始めた。男の退魔士に出来る事を。

...何してるの?」

少年...イザベラが沈黙を破るかのように話しかけてきた。声変わりの時期なのか、少し掠れた声。しかし、見た目は少女なので違和感がある。

「君を救う方法を探しているんだよ。」

「この本に書いてあるの?」

「書いてあるかもしれないし、書いてないかもしれない。」

「あやふやだね。」

イザベラがくすりと笑う。

私はこの素直そうな少年に、直接聞いてみる事にした。

「君は、精通が来ているんだよね?その頃からかな、女の人を見ると襲いたくなったのは。」

「精通って、白いドロドロしたやつが出た時の事?」

「そうだね。」

イザベラは少し考えてから、言った。

...そうかも。今迄は女の人を見ても、ただのお手伝いさんとしか考えてなかったけど、何でか裸にしたい、って思うようになった。これって、変なのかな。」

「変じゃないよ。君くらいの男の子なら、普通さ。でも、それで本当に襲ってしまう事が、悪魔の仕業なんだ。」

よく分からない、と言う風にイザベラは首を傾げた。

駄目だ。どの本にも、男の淫魔を男の退魔士が倒した、なんて話は載っていない。

私はため息をついた。

体液を相手の体に出せば、痣は消えていく筈。つまりは性交渉をすれば、悪魔は落とせるだろう。しかし、手伝いの女性に頼もうにも、退魔士でなければ妊娠のリスクがある。もし妊娠すれば、それは間違いなく淫魔の子どもと言う事になってしまう。

 

それならば、確実に妊娠しない相手と性交渉をすれば良いのでは?

 

いや、しかし。

頭をよぎった考えに、私は首を振った。

彼、イザベラの意思も大切だ。12歳の少年に、いきなり男を抱けと?酷すぎる。

しかし、修行を終えたばかりで実戦経験の無い私には、他にいい術は思いつかなかった。

深呼吸をして、イザベラに問うた。

「イザベラ、良く聞いてくれるかな。君は悪魔に取り憑かれている。その痣の大きさからすると、これから何年掛かるか分からないが、沢山、その...性交渉をしなくてはならない。しかし、痣を消せるのは相手が退魔士の場合だけなんだ。だから、ええと...

「貴方とセックスすれば良いの?」

いきなりの言葉に驚いた私は、口を開けてしまった。

「良いよ。悪魔祓いの為なんでしょ?仕方ないよ。それより、貴方の方が大丈夫?」

「何故」

「俺が貴方を抱くんでしょ?」

この子は分かっている。私が思っていた以上に大人だ。

深く息を吸って、覚悟を決める。

「何年掛かるか分からないが、君を淫魔から救ってみせるよ。」

 

それが10年前。イザベラはもうすっかり逞しい男性へと変貌を遂げた。最初は恥じらいがあった彼も、今やすっかり年上の私をリードする程になった。10年間毎日毎夜、欠かさず抱かれ続けた結果、右半身にあった彼の痣は、残すところ右手だけになった。

しかし、その残った右手が厄介なのだ。悪魔祓いはもう直ぐ終わるだろう。しかし、10年抱かれ続けた私は、彼の右手が私を撫でるだけで、頬が赤らみ股間が膨らみそうになる。淫魔の恐ろしい所はその依存性。つまり、私は彼に触れられると、彼に抱かれたくて仕方無くなるのだ。

「やめてくれ。」

ねっとりと絡めてくる指から逃げるように、私は左手をテーブルの下に引っ込めた。イザベラは、残念そうに残った自分の右手で珈琲のカップを持ち、ゆっくり飲み始めた。それから私に、昔とは違う低い声で話しかけた。

「先生の方から用事でしょ。なんか大切な事なのかなって、思ったんだけど。」

赤くなった顔を隠すように俯きながら、私は答えた。

「君に憑いた悪魔ももうじき祓い終わるだろう。恐らくあと1回か2回、それで私たちの関係は終わりだ。」

...どういう事?」

少し怒ったように、イザベラは言った。

「君の悪魔を祓い終わったら、報酬を貰って私はこの街を出て行く。」

ガタンッ、と勢い良く立ち上がったイザベラは、少し声を抑えようとしながら、しかし怒りに満ちた声で言った。

「何でだよ!先生と俺の10年って、そんなもん?俺を置いて出て行く?10年間毎晩抱かれて、俺に対しての感情って、そんなもんな訳?」

「君はもう自由に外にも出られる。悪魔の操り人形ではなくなった。私以外の、魅力的な女性と、まともな恋をするべきだ。」

ウェイトレスを横目で見ながら、私は言った。

「君のお父さんも、悪魔祓いはもう終わると伝えたら、ほっとした様子でいたよ。」

「親父は関係ないだろ!」

周囲がざわつき出した。私はイザベラに座るよう指示した。彼は頬を膨らませたまま、どかりと椅子に腰掛けた。それから私の目をじっと見つめた。

「俺は、先生が好きだよ。10年間ずっと。」

私は下を向いて答えた。

「それは気の迷いだ。淫魔のせいだよ。勘違いしてるんだ。」

「勘違いで10年間好きなわけないだろ。先生、俺がこの間抱いた時、好きって言ったの覚えてる?」

「淫魔のせいだ。」

「違う。本当に好きなんだよ。ずっと一緒にいたいって、言ったじゃん。そしたら先生も、俺の事好きって。」

「雰囲気に流されただけだ。君の事は好きだが、そういうんじゃない。」

「何で」

「君はもうすぐ普通の人間になる。退魔士の私と一緒にいるべきじゃないんだよ。」

するとイザベラは下を向いたまま、黙ってしまった。しかし右手で私の手を撫でようとしたのを私は見逃さず、そっと避けて席を立った。

その日の夜が最後の夜だった。お互い何も言わず、ベッドの軋む音だけが、部屋に響いていた。

 

最後の夜から3日後、10年住み続けたボロボロの借家で、私は旅支度を始めた。

イザベラの両親は私に深々と頭を下げ、報酬をくれた。それは貧乏性の私が一生かかっても使いきれない額だった。

出発は夜と決めていた。イザベラに見つからない為だ。他人に見られなければ、イザベラに見つかる心配は無い。

人気の無い夜中。私は街灯のない道を1人歩いていた。10年も居続けてしまった街。次は何処に行こう。

森の入り口に差し掛かった時、つい後ろを振り返ってしまった。月明かりに灯された町に、寂しさを感じた。思い出すのはイザベラの顔ばかり。

駄目だ。このままでは。次へ進まねば。

森に踏み込むと、そこは別世界のように真っ暗だった。フクロウの鳴き声が聞こえる。私の旅立ちを祝福しているのだろうか。それとも自分の気持ちに嘘をついた事を嗤っているのだろうか。

しばらく進んだ時、ふと、背後に気配を感じた。

人、ではない。

鞄にしまってある聖水に手を掛け、思い切り振り返る。

そこには私より2メートルは大きいであろう悪魔がいた。

聖水の中身は精々1リットル。足りない。

考えている間に足首を掴まれ、引き摺られた。こいつは人間を取り込んで大きくなる悪魔だ。

食われる。

いや、このまま食われるのも良いのかもしれない。もう二度とイザベラに会えないのならば。

そんな思いが頭をよぎった時、悪魔の後ろに人影が現れ、その途端悪魔の頭が吹き飛んだ。

奇声をあげて頭のあったはずの場所を押さえる悪魔。私を掴んでいた腕も、知らないうちに引きちぎられていた。

私と悪魔の間に立ち、私を守るように現れたのはイザベラだった。

いや、以前のイザベラとは違う。右腕が黒々と大きくなっている。

「よお、先生。」

「イザベラ...なのか?」

目を疑った。確かにあの夜、悪魔は祓い終わった筈。しかし、それは淫魔の時とは違った痣だった。

「先生が寝ている間にちょっと本を拝借してね。別の悪魔を取り込んだ。」

「何て事を...

「説教は後!逃げるぞ!」

そう言うが早いが、イザベラは私を抱え上げ、森の奥へ走って行った。

 

「ここまで来れば一安心、か。な、先生!」

パンッ

私はイザベラの頬を叩いた。イザベラは、ぽかんとして私を見ていた。

「折角悪魔祓いをしたのに、別の悪魔を取り込むなんて正気か?!自我をなくしていたかもしれないんだぞ?!」

「だって」

「だって、何だ?!」

「先生と一緒にいたかったんだよ!!!」

今度は私がぽかんとイザベラを見た。

「悪魔になれば、あんな家つがなくて済むし、何より悪魔祓いの手助けになるかもって」

そう言ってもごもごと言い訳を並べた。

「俺は先生とずっと一緒にいたくて、どうすれば良いのか悩んだけど、やっぱり普通の人間になったって、先生の居ない人生なんて...

そんなの、私だって。

俯いているイザベラを私は抱きしめた。

「嬉しいよ、イザベラ。私も本当は、君といたかった。君と人生を歩みたかったんだ。」

イザベラは嬉しそうに抱きしめ返してきた。

「でも」

私は付け加えた。

「二度とこんな危ない事、するんじゃないぞ!」

イザベラは悪戯っぽくにやっと笑った。

それから私たちは森の道を並んで歩き出した。

「また君の悪魔祓いをしなきゃならん。」

「いいよ俺は、このままで。悪魔連れた退魔士なんて、強そうで格好良いじゃん。」

フクロウの鳴き声が掻き消えるくらいに、2人で笑いながら次の街へ向かった。