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数日後、青山さんは休みが取れた。久しぶりの休日。家でゆっくりが良いかしら、とアタシが言えば、せっかくだから出掛けようか、と言う。

「でも、疲れてるんじゃない?」

「大輔には、心配かけたからね。」

楽しい思い出を作りたいんだ、と笑う。

一日だけだから宿泊は無理だし、かといって遠出すると遅くなってしまって翌日に響く。

「海が見たいな。」

海なら、電車で十五分ほど行ったところにある。良い案だと思う。

「青が、好きなんだ。」

「青山だから?」

ふふ、と笑いながらそう言うと、そうかもね、と彼もつられて笑顔になった。

「子供がさ、」

アタシの手を指で弄りながら、呟く。

「子供がいたら、アイ、って名前にしたかったんだ。男でも、女でも。」

「どう書くの?」

彼は手帳を取り出して、サラサラとペンでそこに「藍」と言う字を書いた。

「藍色の、藍。良い名前だと思うんだけど。」

「素敵ね。」

「海とか、空とか、そういう澄んだ色っていうのかな。それが好きで、学生の頃は意味もなく屋上に上がって空を見上げたり、海を見に行ったりしたなあ。」

写真もたくさん撮ったっけ、と天井を見上げて言う彼は、思い出に浸っている様だった。

「僕の実家は、海が近くて。日本海側なんだけどね。その海が、まさしく藍色なんだ。」

「見てみたいわ。」

彼の指をぎゅっと掴んで、そう言うと、目を閉じて少し黙った後に、「いつか、そのうちね」と普段の彼らしからぬ曖昧な返事をした。

家族に会わせるのが嫌なのかしら。そうよね、こんなオカマ、連れて行ったら彼の株が下がるわ。仕方ないわよ。

そんなアタシの心を察したのか、青山さんはアタシの頬に触れて、真っ直ぐに見つめた。

「大輔と一緒なのが嫌なんじゃないよ。家族にはカミングアウトしてるし。僕は次男だから、自由にやりなさいって言われてる。むしろ、紹介して、自慢したいくらいだよ。僕の素敵な恋人をね。」

ただ、今は駄目なんだ。そう視線を落とす彼の目は、少し濁っていた。

いつか、連れて行ってくれる?」

「うん、いつか、ね。」

 

お弁当を持って、電車に乗って、近くなのにとてもワクワクした。

青山さんとの久しぶりのお出掛け。青山さんの久しぶりの休み。今日は、ずっと一緒にいてくれる。夕飯はどうしよう。どこかで食べて行くか、ううん、やっぱり夜は家でゆっくりしたいわ。アタシの作ったご飯を食べて、映画を観るの。アタシのオススメのラブストーリー。死んだ恋人が幽霊になって現れる、名作。

海は少し風が強くて、レジャーシートが飛ばされそうになったので、近くに落ちていた流木で四隅を留めた。海を見ながら食べるサンドイッチは格別美味しくて、あっという間に平らげてしまったアタシたちは、引いては返す波をぼうっと眺めていた。特に会話らしい会話もなかったけれど、それは青山さんがアタシを信頼して、安心してくれているという証のような気がして、なんだか誇らしかった。

海から彼に目線を移動させると、彼もアタシを見ていた。バッチリ目が合って、少し恥ずかしくなって下を向く。アタシの耳たぶを触って、ピアスを弄る。

「付けてくれてるんだね。」

「当たり前でしょ。」

ずっと付けてるわよ、と言うと、嬉しいな、と笑う。

「でも、僕が死んだら外してね。」

君を縛っているような気がして苦しくなるから、なんて言う彼の頬をつねった。

「そう言う事、言わないでって言ってるじゃない!」

「はは、ごめん。」

外さないわよ、と呟くと、彼は目を丸くした。

「一生付けてやるんだから。アタシは青山さんのものだから。」

「そっか。」

耳たぶに口付け、ピアスを舌で転がす彼は、どこか寂しげで、なんだかアタシは胸の奥がきゅうと締め付けられる思いだった。

 

海風が冷たく感じて、そろそろかなとアタシたちは駅へ向かった。

次の電車は十分後。

青山さんはアタシの手を強く握っている。どうしたのかしら。先ほどよりもずっと濁って見える瞳が、アタシを不安にさせる。

「大輔。」

アタシの名前を小さく呼んで、爪が食い込むほどに手に力を込める。

なあに、と問うと、彼の目から一筋涙が溢れた。

「どうしたの?」

涙の意味が分からなくて、アタシは彼に何かしてしまったかしら、と慌ててハンカチで拭いてあげる。

「ありがとう。君と、出会えてよかった。」

震える唇から漏れた言葉。まるで、最期のセリフみたい。

「アタシこそ、幸せよ。勿論、これからも幸せにしてくれるんでしょ?」

返事は、ない。代わりに俯いて、声を殺して泣く彼の背中をさする。

「ごめん。本当に。君を幸せにしたかった。」

「幸せよ。今だって充分。でも、もっと幸せにしてくれるんでしょ?」

アタシたちはずっと一緒だもの。歳をとって、しわくちゃになって、笑いながら老いた姿を見て言うの。「老けたね」って。

「青山さん?」

何も言わない彼の名前を呼ぶと、顔を上げてアタシを見る。濁った目が、涙で濡れている。

ホームにアナウンスが流れた。もうすぐ電車が来る。こんなに落ち込んでるんだもの。やっぱり家でゆっくりするのが一番だわ。

「愛してるよ。大輔。」

「アタシこそ、愛してるわ。」

人の少ないホームで、キスをする。彼の手が、アタシの頬を包む。でも、なんだかいつもみたいに甘く感じなくて、涙のせいか塩辛いし、胸が苦しくなる。

ふ、と彼の手がアタシから離れる。

「ありがとう、大輔。本当に、ありがとう。」

その瞬間、彼の姿がやってきた電車の中に消えた。

 

青山さんは、アタシの目の前で、ホームに飛び降りて死んだ。

 

ママに休みを貰って、どれくらい経ったかしら。玄関のベルがうるさい。仕方なくベッドから出て、扉を開けると、コンビニ袋を携えたミカが立っていた。

「大輔、何も食べてないでしょ。」

そう言って、買ってきた幕内弁当を温めた。窓を開けて、空気を入れ替える。冷たい冬の空気が、アタシの身体を冷やす。

「青山さんの事、あのお友達に聞いたの。彼、上から圧力かけられたとかで、会社の金の横領の片棒を担がされてたみたい。」

そんな事、今更どうだって良い。それを知ったところで、彼は帰ってこない。真っ赤に腫れた目でコンビニ弁当を見る。彼と暮らしている時は、コンビニ弁当なんかじゃ済まさなかった。いつもアタシが温かい手料理を作って、彼を労っていた。毎日疲れて帰ってくる彼のために、愛情をたくさん込めて。

ねえ、青山さん。それじゃあ、足りなかった?アタシは、あなたの力になれなかったの?

ミカは泣きながらお弁当を口に運ぶアタシを見て、静かに向かいに座った。

「ねえ、大輔。青山さんから、最期に何か言われたりしてないの?」

愛してるって。ありがとうって。」

思い出して、涙が止まらない。どうして、彼が死ななくちゃいけないの。何も悪くないじゃない。どうして、アタシの幸せを奪うの。カミサマなんて、信じられなくなる。

「名前、」

「うん。」

「アタシ、ずっと青山さんって呼んでた。一度も下の名前で呼ばなかった。どうしてかしら。最期に、ちゃんと呼べばよかった。そうしたら、もしかしたら、」

「大輔。」

震えるアタシの手をそっと握って、ミカが言う。「大輔は何も悪くないよ。」

悪いわ。アタシが悪い。何も気付かなかった。気付けなかった。目を逸らしていたの。現実から。彼がいなくなるかもしれない予兆は、たくさんあった。それなのに───。

ふと、あの手紙のことを思い出して、アタシは立ち上がって寝室に向かった。ベッドサイドの棚を開けると、白い封筒が入っていた。

青山さんの、本当の、最期の言葉。

ふう、と息を吐いて、ゆっくりと開ける。便箋にびっしりと書かれた、彼の綺麗な字。

自分が死んでも悲しまないでほしいとか、君のせいじゃないとか、そう言うことが細かく書かれていた。

最後の一文───君には幸せになる権利があるから、僕の事は忘れてくれ。

アタシは手紙を破った。もう元になんて戻せないくらいにビリビリに。

あなたがいない幸せなんて、どこにあるというの。アタシの事、幸せにしてくれるんじゃなかったの。一緒に日本海を見に行こうって、言ったじゃない。

嘘つき。嘘つき。嘘つき。

破けた手紙が足元に散らばる。ミカが、落ちていた封筒を拾った。

「大輔、これ、まだ中に何か入ってる。」

振ってみると、出てきたのは銀色の指輪。青い石が付いていた。

彼の好きだった、青。海のような、空のような、綺麗な青い石。

「婚約指輪?」

覗き込んで、ミカが言う。裏を見ると、日付が刻印されていた。

アタシと青山さんが、出会った日。店で初めて話した、あの日。

知らなかった。こんなもの、いつの間に買ってたのよ。どうして直接渡してくれなかったのよ。

「それさ、」

ミカは顎に手を置いて、少し考えてから、言った。

「もし現状が変わったら、大輔に渡すつもりだったんじゃない?その手紙も捨てようと思ってたのかも。でも、忘れないためにそこに入れておいた、とか。」

「そんなのっ、」

ずるい。その一言は、出なかった。彼は彼なりに考えて、頑張ってアタシを幸せにしようとしてくれていた。ずっとそばにいる努力をしてくれていたんだ。これを買う時、どんな気持ちだったのかしら。アタシとの未来を少しは考えてくれたかしら。

手の中で光る指輪を見ながら、彼の笑顔を思い出した。

「それは大輔のだよ。煮るなり焼くなり、すればいいよ。」

「そんな事、しないわ。」

大切に、手で包み込んでそれを胸元に寄せる。

「青山さん───ヒロさんからの、贈り物だもの。」

あなたがそばにいてくれている気がする。アタシを抱きしめてくれている気がする。もう泣かなくていいよ。そんな声が聞こえた気がしたけれど、カーテンを揺らす風の音で掻き消された。

 

ああ、高校の夜回りのバイトなんて、引き受けるんじゃなかったわ。

二年生の教室に、鞄が残っていたから、誰かが校舎内に残っていると言う事になる。探さなくちゃ。面倒臭い。

どこを探しても見付からなくて、もしかして、と思い屋上へ行った。鍵は掛かっていたけれど、念のため確認する。

いた。全くもう。こんな時間にこんなところにいるなんて、とんだ不良高校生だわ。

「何やってんの、こんな時間に!」

声を掛けると、驚いて肩が跳ね、ゆっくりと振り返る。藍色のセーターがよく似合う、男の子だった。

何だか放っておけなくて、ついお節介な事を言ってしまう。ぷりぷりと怒る少年の名前は、藍。素敵な名前だわ、と思った。