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「大ちゃん、なんか良いことあったでしょ?」

ママに問われて、拭いていたグラスを落としそうになった。

「顔に幸せって書いてあるわよ。」

思わず持っていた布巾で顔を拭いてしまった。ママはそんなアタシを見て豪快に笑う。素の時のママは、やっぱり男だ。

「恋してるんでしょ?大ちゃんあんまり浮いた話なかったから、心配してたけど、これで安心だわ。」

「そんな、親みたいなこと言わないでよ。」

確かにママは皆のママだけれど。頼りになるエミカママは、このバーでも一番の美人。アタシもこんな顔に生まれたかったなと思う。でも、いいの。青山さんは、アタシのありのままを好きになってくれたんだもの。これ以上の幸せを望むなんて、贅沢だわ。

「エミカママ!奢ってよ!」

ソファでミカがグラスを掲げて大きな声で言った。ミカは水商売仲間のホステス。違う店の子だけど、女の子だけど、可愛くて気の強い良い子。

「なんでアンタに奢らなきゃいけないのよ。」

ママがミカにぴしゃりと言う。ミカは少し考えてから、「大輔の初恋祝い?」と答えた。

「それなら大ちゃんに奢るもんでしょ!アンタはこれから出勤なんだから、ちょっとは控えなさい!」

「意地悪〜!同じミカ仲間じゃん!」

「オカマと女を一緒にしないで。アタシの方が美人だしね。」

アンタは痩せすぎよ、とママが言う通り、ミカはとても細い。お酒ばっかり飲んでるから、肝臓でも悪いのかしら。自炊してるって言っていたけれど、どれだけ出来るのか知ったものじゃない。

ちぇ、と小さく舌打ちをして、ミカは煙草に火をつける。そういえば、青山さんは時々電子タバコを吸っていたっけ。禁煙したけれどたまに吸いたくなっちゃうんだよね、と笑う彼の顔を思い出して、アタシは頬が赤くなるのを感じた。今は、青山さんの事を考えている場合じゃないわ。仕事に専念しなくちゃ。

扉のベルが鳴って、お客さんが入ってくる。ママはミカを追い出して、接客用の笑顔になった。二名です、と言う声が聞こえる。カウンターの下の掃除をしていたアタシは、聞き覚えのある声にドキッとした。そっと顔を上げると、青山さんがこちらに手を振っている。前に来たお友達と、一緒。

焦りすぎて、棚に頭を強打しちゃったけれど、何もなかった風を装って、立ち上がる。お友達はソファへ、青山さんはカウンターへ。

「来ちゃった。迷惑だったかな。」

首を横に振って、ウイスキーを注ぐ。ありがとう、と言って受け取る青山さんは、前回店に来た時同様、くたびれたスーツを着ていた。

「お仕事、忙しいの?」

「うん、まあ、それなりにね。」

疲れた顔をしている。働き盛りなのは分かるけれど、あんまり無理してほしくない。

「営業回りと、経理の今ちょっとそっちがね。」

ため息を漏らす。少し、顔が青い気がする。心配になって、彼の手を取る。青山さんは、アタシの手に気付くと、あの優しい笑顔を向けた。

「大丈夫だよ。大輔が心配するほどの事じゃないから。」

僕がなんとかしなくちゃ、と呟いた。心配よ。あなた、あんまり自分の仕事の事話さないじゃない。何かあるんじゃないかって、思っちゃうわ。

でも、それを口にしたら、彼を信用していないみたいで、なんとか心の内に抑え込んだ。

一人で抱え込まないで。」

アタシが彼に唯一言える言葉は、それだけな気がした。彼は笑ってアタシの頬を撫でてくれた。さすがにお店でキスは出来ないけれど、彼の指がそのままアタシの唇に触れ、前戯をされている感覚に陥る。

「早く帰りたいな。」

ぽつりと言う青山さんは、アタシをじっと見て、アタシは恥ずかしくなって俯いた。今は営業中。お酒を作るのはアタシの仕事だから、店は出られない。

ふと、向こうにいるママと目が合う。ウインク二つ。店のロッカールームが今なら空いているわよ、と言う合図。青山さんの手を引いて、裏へ回った。

 

店でするのなんて初めてで、スリル満点だったけれど、やっぱり床は固いしロッカーは痛い。家のベッドでするのが一番好きだわ、と思った。

座り込んでお水を飲んでいる青山さんの頬に軽くキスをする。

「いつもそんなスーツ着てるの、営業としては駄目なんじゃない?」

「今日は外回りなかったから。」

だからって、恋人がしわくちゃな服を着ているのは許せないわ。

「アタシが、洗濯してあげましょうか?」

驚く彼。真っ赤になるアタシ。青山さんはアタシの耳たぶを触って、ピアスを弄る。

「一緒に、暮らしてくれるの?」

黙って頷くと、嬉しいな、と言って唇にキスをした。

 

青山さんとアタシの同棲生活が始まった。

青山さんは昼のお仕事だし、アタシは夜のお仕事だし、すれ違う時間も多いけれど、朝ご飯は必ず一緒に食べる。夜も、アタシが帰ってくると青山さんはもそもそと起きて、優しく抱いてくれた。

でも、最近青山さんは、帰りが遅い。日付が変わるのなんてしょっちゅうだし、お風呂にも入らず、ベッドに倒れ込む。

心配で、大丈夫?と問えば、ちょっと忙しいだけだよ、と返ってくる。顔色も悪いし、痩せた気がする。

アタシは思い切って、ママにお願いして休みを貰った。朝から掃除をして、部屋をピカピカにして、ご馳走を作る。青山さんが好きなビーフシチュー。青山さんは米派だから、白米もたくさん炊いた。サラダはおしゃれに、チーズを星形にして乗せてみた。一つだけハート。アタシの愛情を込めて。

青山さん、喜んでくれるかしら。

うずうずしながら待っていたら、気付いたらもう深夜一時を回っていた。今日も遅いのかしら。朝、出掛ける時に「夕飯はご馳走よ」と告げておいたけれど、彼の言う通りお仕事が忙しいなら仕方ないわよね。お皿に盛ろうかと思っていたビーフシチューは、すぐに温め直せるように鍋に入れてあるし、大丈夫。美味しいご飯で、彼を元気にしてあげなくちゃ。それから、久しぶりに、ゆっくりベッドで二人で寝るの。

そんな事を考えていたら、玄関の扉がバタンと閉まる音がした。帰ってきたわ。すぐさま廊下に出る。

 

扉が閉まる音ではなかった。

青山さんは、玄関で倒れ込んでいた。

 

慌てて駆け寄り、彼の身体に触れようとしたけれど、はたと思い出す。そうだ、こういう時って下手に揺すったりしちゃいけないんだわ。

急いで携帯電話を取り出して、救急車を呼ぼうと番号を押す。あれ?救急車って、何番だっけ。パニックになって、何も分からない。

す、と彼の手が伸びてきて、携帯電話をアタシの手から奪った。

「大丈夫。ちょっと、疲れちゃっただけだから。」

良かった。意識がある。アタシは彼をベッドまで運んで、そっと寝かせた。氷枕を持ってきて、スポーツドリンクは無かったからとりあえずお水を飲ませる。

「青山さん。」

ぐったりとしている彼の名前を呼ぶと、力のない笑顔を見せた。

「心配かけて、ごめんね。」

「心配するわよ。当たり前でしょ恋人、なんだから。」

アタシの髪をくしゃりと撫でて、額にキスをしてきた。ごめん、と小さく言う。

「ねえ、何かあったなら、遠慮なく話してね。アタシに出来る事なら、なんでもするわ。」

「そうだなあ。」

少し考えた後、青山さんはアタシの腕をぐいと引っ張って、アタシをベッドに引き摺り込んだ。

「僕が、仕事の事忘れられるくらい、気持ちいい事しようか。」

深く、深く、キスをした。

 

翌朝起きると、青山さんの姿はどこにもなく、テーブルに書き置きがあった。

「朝の仕事が入ってしまったので先に出ます。ごめんね。愛してるよ。」

一人の朝ご飯。なんだか寂しくて、トーストを焼いたけれど口の中がパサパサして、味を感じなかった。

ベッドに戻って二度寝でもしようかしら。そう思って寝室に入ると、彼が脱ぎっぱなしにしていったパジャマがあった。手に取って、深く吸い込む。

青山さんの、香り。

少し汗臭くて、電子タバコの匂いが混じっている。それから、これは、フェロモンかしら。欲情に駆られる。ああ、青山さん。昨夜のから元気な姿を思い出す。無理してほしくない。でも、仕方ない。彼の仕事だもの。アタシが口出すなんて野暮な事は、出来ないわ。

休ませてあげたい。せめて、一日だけでも。二人でゆっくりしたい。

 

「僕が死んだら、これ、読んでね。」

そう言って、青山さんは手紙をベッドサイドの引き出しに入れた。

「縁起の悪い事、言わないで。」

怒るわよ、と頬を膨らませれば、彼は笑ってごめん、と言う。

「でも、約束してほしい。僕からの最期のメッセージだと思ってさ。」

「なんでそんな事言うの。」

前よりずっとやつれてしまった彼の身体にもたれ掛かりながら、アタシは彼の頬をつねった。

「ねえ、何かあったの?」

豆電球を見つめながら、黙っている青山さんの目は、少し濁って見える。不安の色。

「ねえ、」

「子供が欲しいなあ。」

いきなり話を逸らされて、キョトンとしてしまう。

「君に似た、可愛い子。」

「アタシ、産めないわよ。」

分かってるよ、と笑う。

「でも、今は代理出産とか、人工授精とか、養子を取るとか、選択肢はたくさんあるだろ?」

「そうだけど。」

青山さんは、女の方がいいのかしら。なんで突然、そんな事言うの。

「僕がいなくなっても、大輔が寂しくないようにしたいんだ。」

「いなくならないでよ。」

顔に皺を寄せて、約束出来ないな、なんて言うから、アタシは涙が出てきてしまう。

「なんでそんなに不安な事、言うのよ。」

「大輔、ごめん。ごめんね。」

アタシの涙を舌で掬って、そのままキスをした。それでも、アタシの目から溢れ出るものは止まらない。

何に対して謝っているのか、分からない。アタシは今のままで充分幸せなのに。

「愛してるよ。今までも、これからも。」

抱きしめてくれる腕に、力は無い。それでも優しく、アタシの背中を撫でてくれた。それから、何かを思い出したように、枕の下からゴソゴソと取り出したのは、黒いベロアのケースだった。

「起きた時のサプライズにしようと思ってたんだけど。」

丸い銀色のピアスが二つ。裏を見ると、プラチナのマーク。

「高かったんじゃない?」

へへ、と笑って、アタシの耳たぶに付けてくれた。

「よく似合う。」

「ありがとう。一生大事にするわ。」

「大袈裟だなあ。」

本当よ、と言えば、彼はふ、と微笑んで、これでずっと一緒にいられるかな、と小さな声で呟いた。