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その人は、お友達と来ていたのに、美人揃いの賑やかなオカマ仲間のいるソファ席ではなく、アタシが一人グラスを磨いていたバーカウンターへと真っ直ぐに来て、ウイスキーを頼んだ。
「あちらに行かなくて良いんですか?」
そう尋ねると、「賑やかなのは苦手なんだ」と苦笑いして言った。目元に皺が寄って、笑うと少し歳が上に見えた。スーツが少しくたびれていたせいもあるのかもしれない。
ウイスキーの水割りを差し出すと、ぐいと一気に飲む。見た目の割にお酒が強いのね、なんて少し失礼なことを考えてしまう。
「お友達は、放っておいて良いんですか?」
「ああ。」
二杯目を頼みながら、ちらりと向こうを見て、アタシに向き直る。
「あいつはさ、チヤホヤされたくてここに来てるから。僕は引率だよ。オカマバーなら浮気にならないんだってさ。」
と言う事は、お友達はノンケなのかしら。それじゃあこの人も?
「僕は、ゲイだからね。あいつにはカミングアウト済み。だからかな、連れて行けって煩くて。ほら、バーエミカは、ここいらじゃあ美人揃いで有名だろう?」
「あら、それはアタシも入ってるのかしら。」
接客担当の皆と違って、アタシは男性バーテンダーの服装。顎髭まで生やしているし、髪は金髪の刈り上げ。口調以外は、どう見たって男なのに、何故だかその人には「綺麗」と言われてみたくて、少しからかってみた。
「君は、美人じゃないよ。」
少しがっかり。自分がどうやったって女らしくなれないのは、とっくの昔に分かっているけれど、直接言われてしまうと傷付く。アタシだって、本当は、皆みたいに煌びやかな世界に入りたかった。
「美人じゃないけど、素敵だね。僕は、君みたいな人の方が、好きだよ。」
素敵。その言葉に、顔が熱くなるのを感じた。お酒が入っているとは言え、彼の目は真っ直ぐにアタシを見ていて、とても嘘とは思えなかったの。
恥ずかしくて、お酒を取るフリをして後ろを向いた。
「アタシは、そんな安い言葉に騙されるような人間じゃあ、ないわ。」
「安いかな。」
カラン、と氷が溶ける音が響く。
「僕は本気でそう思ってるんだけどなあ。」
僕の言葉じゃあ価値なんてないか、と笑う彼。すとん、と恋に落ちる音が聞こえた気がした。
駄目よ、駄目。お酒の入った男なんて、信用しないって決めたじゃない。
「シラフの時に言ってくれたら、信じるわ。」
「それは、今度二人で会ってくれるって事?」
グラスに滴る水を指で拭きながら、彼は言った。
「からかわないでちょうだい!」
「からかってなんて、」
「アタシの事、馬鹿にしてるの?!」
思わず大きな声を出してしまった。皆がアタシの方を向く。ハッとして、俯いて黙る。
「…ごめん。」
先に口を開いたのは、彼の方だった。ポケットから名刺を取り出して、アタシに差し出す。
「僕の名前、覚えてくれる?また、会いたい、です。」
少し頬を赤らめながらそう言う彼は、とても可愛らしく見えた。アタシは名刺の名前を読み上げる。
「青山…ゆうじ?」
「ひろし、って読むんだ、それ。」
裕司と書いてヒロシ。本当だ。横にローマ字で書いてある。
「ややこしいよね。いつも間違えられるよ。」
「そうでしょうね。」
「君は、だいすけ?」
アタシの名札を見て、名前を呼ぶ。ドキッとしてしまったけれど、悟られないように必死で繕った。
「初対面の相手のファーストネームを呼ばないでちょうだい。片倉よ。」
「カタクラさん。」
顎に手を当てて、少し考えて、「だいすけ、の方が呼びやすいなあ」なんて言う。
「だいすけさん。」
「片倉って呼んで。」
「だいすけさんは、暇な時、ある?」
デートしようよ、とアタシに向かってにっこり笑ってくる。ああ、もう。その笑顔、反則よ。
「アタシ、年下には興味ないの。」
「僕の歳、知らないでしょ?」
「すぐにナンパする奴も、嫌い。」
「普段はこんな事しないよ。だいすけさんが、素敵だったから。」
カウンターを拭いていたアタシの手にそっと触れて、キラキラ光る眼差しを向けた。比喩じゃない。本当に、キラキラしていたの。
「アタシ…アタシ…は、」
言葉が喉に詰まる。声が出ない。彼の顔が、少しずつ近付いてくる。あ、キスされる。そう思った。
「ヒロ!」
突然、彼の名前をお友達が呼んで、彼は振り返って、アタシは慌ててそっぽを向いた。
「お前もこっちに来いよ!このオネエ様方、優しいぞー!」
彼はお友達に笑顔を向けて、答えた。
「分かったよ。」
それからアタシに向き直って、「だいすけさん、連絡してね。」と小さな声で言って、名刺を置いていった。
その日から、彼の事が頭から離れなくなっていた。特別ハンサムなわけでも、スタイルがいいわけでもない。ただ、あの優しい笑顔。あの顔が忘れられない。
そういう時は、ハッテン場にでも行くに限る。入り口でリストバンドを貰って、右腕に付けた。タチは左、ネコは右ってルール。
中はとっても男臭くて、汗と熱気が充満していて、そこらから喘ぎ声が聞こえるこの空間にアタシはなぜだかホッとしていた。
それでも、アタシはこういう所では差別の対象に見られがち。
「あんなでかい男がネコかよ。」
「背のわりに筋肉もないし、萎えるわ。」
そんなひそひそ声が聞こえてくる。そう。ゲイって世界は、男女の世界よりも理想の男らしさ、というものが求められる。特にアタシは、背は高いけれどそれに見合った筋肉は、それほど付いていない。世間的には少しはマッチョの部類に入るけれど、ゲイの世界はもう少し肉付きのいい人が好まれる。それで声なんて出して、オカマだってバレたら、それこそ蔑んだ目で見られる。男というものを重視するゲイの世界では、女らしく振る舞うことは嫌われる対象になる。勿論、それが好きって人も中にはいるけれど、ハッテン場ではモテない。
冷たい視線に耐えかねて、アタシはさっさとそこを出てしまった。お金が勿体なかったわね。
今は真夏。外は暑い空気に包まれていた。汗がTシャツに染み込んで、身体がベタつく。はあ、と一つ息を吐く。アタシ、ゲイである事に向いてないのかしら。それこそ趣向の一つなんだから、仕方ないとは言え、折角ああいう場所に行っても噂されるなら、この世界にアタシの居場所なんて、無い。ショーウインドゥに映った自分の姿を見て、腕を触る。もう少し、筋肉つけた方が良いかなあ。
「だいすけさん?」
突然名前を呼ばれて、振り返ると以前会ったスーツ姿とは違う、ラフな格好をした彼が高級なお菓子屋さんの紙袋を携えて、立っていた。
「こんな所で会うなんて、奇遇だね。運命感じちゃうなあ。」
そんな言葉で踊らされるほど、今のアタシは気分が良くない。無視をして歩き出すと、トコトコと追いかけて来た。
「電話、待ってたんだけど。」
「する訳ないでしょ。」
「なんで?僕の事、好みじゃない?」
「そうね。アタシよりも背が低いし。イケメンでもないし。」
「だいすけさんより背の高い男を探す方が、難しそうだけどな。」
キッと睨みつけると、少したじろいたけれど、すぐに笑顔になる。
「だいすけさんよりは背は高くないけど、年上の包容力はあると思うんだ。」
「年下でしょ?」
「そんな馬鹿な。だいすけさん、やっぱり僕の歳分かってないよね?三十二だよ。」
童顔だから若く見られがちだけど、と言う彼の目元の笑い皺に、ああ、と年齢を感じた。
「だいすけさんは、まだ二十代でしょ?」
「ピチピチの二十三よ。」
九つ違いかあ、と呟いて、彼はアタシの手に自分の手を絡ませた。
「お茶しようよ。デート。少しだけだけど、時間ある?」
気分転換がしたかったのは本当だし、アタシは彼に連れられてカフェに行った。
アタシはブラックコーヒー、彼は、チョコレートの入った飲み物。
「随分甘いもの飲むのね。」
男らしくないわ、と彼に言うと、ストローで飲み物を飲みながら、あの笑顔をアタシに向ける。
「男らしいって、好きなもの我慢したらなれるものなのかな。」
どきりとしてしまった。今自分が彼に言った言葉は、周りに思われているアタシの印象と差して変わりはないし、それにめげずに自分の好みを肯定できる強さを持つ彼が、羨ましかった。
「好きを我慢して、それでモテても、本当の自分じゃ無いなら意味がないと思うんだ。」
彼の言葉が胸に刺さる。その通りだ。アタシも、アタシらしくいて、それで好きって言ってくれる人が現れたら、それが一番の幸せじゃない。
「…ごめんなさい。少し、当たっちゃったわ。」
「やっぱり、嫌なことでもあった?」
どうしてこの人は、アタシの事をこんなに分かるのかしら。目線を逸らすアタシをじっと見つめているのが分かる。
「だいすけさんは、そのままでも充分素敵だよ。」
ああ、もう。心が揺さぶられる。こんな男にアタシが惹かれるなんて。
「無理しなくて良いのよ。」
「本当の事だよ。」
「どうして、そんなに優しくするの。」
「好きだから。」
好き、その一言でどれだけアタシの心が軽くなったかしら。薄い唇が、ストローから離れて、ゆっくりとアタシに近付き、アタシの唇と重なった。
少しずつ離れていく顔。知らないうちに、アタシは涙を流していた。
「ご、ごめん。嫌だった?」
焦る彼に、首を横に振る。嫌じゃない。むしろ、
「…嬉しいの。好きって、言ってくれてありがとう。」
そっと手を握る。アタシよりも背が低いのに、アタシよりも大きな手。握り返す力はとても強くて、アタシを慰めるように指を絡めた。
「僕の家、来る?」
玄関に入った途端に、キスをする。甘くて、濃厚なキス。彼は背伸びをして、アタシは少し屈んで。はあ、と息継ぎをすると、彼も顔を真っ赤にしていた。
「だいすけさん。」
なあに、と問えば、彼は再び口を塞ぐ。舌でアタシを蕩けさせる。ポワポワした気分。こんなの、初めて。
「僕の名前、呼んで。」
そういえば、アタシは彼を名前で呼んだ事がなかった。
「青山…さん?」
「大輔、好きだよ。」
ベッドまで待てずに玄関の廊下で、アタシの服をどんどん脱がしていく。その早い手つきにアタシは少し驚いてしまう。
「ちょ、ちょっと待って!」
「待てない。」
「でも、あの、」
「…嫌?」
そんな悲しそうな顔しないで。ここは、正直に言うべきよ。そう、恥ずかしい事じゃない。
「あの、ね、引かないでね。」
「うん?」
深く息を吸って、彼の澄んだ瞳を見る。
「あ、アタシ、こういうの、初めてなの。だから…その、」
「大輔さん、処女なの?」
その言葉に、真っ赤になった。青山さんの胸をぽこぽこと叩く。
「処女じゃないわよ!その、中学生の時に塾の先生にヤられたから、完全な処女ではないけど、大人になってこういう事するのは、初めてなの!」
青山さんは、けらけら笑って、そっか、とアタシの首筋にキスをした。
「分かった。優しくするよ。」
それが、アタシと青山さんの初めての夜だった。アタシは青山さんの名前を何度も呼んで、愛してる、と叫び続けた。
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