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放課後の校庭は賑やかだ。運動部の掛け声がこだまする。

それに引き換え、昼間はあんなに騒がしい校舎内は、生徒が外に出てしまった今、しんとした空気を密封させて、冷たく重い雰囲気を醸し出していた。

廊下には、僕の足音が虚しく響く。重く、鈍い、一歩一歩。教室に向かうのに、時間なんて関係ないんだな。昼も夕方も、嫌なものは嫌だ。

掃除をし忘れた埃が落ちる階段を三階分昇り、二年の教室へ。そこで、翔が待っているはず。多分、一人じゃないだろうけど。

 

「今から行くから、教室にいて。」

 

それだけ言って、電話を切ったのは、つい二十分前。翔の返事を聞く前に、ブツリ。あいつの声なんて、聞きたくもない。

ガラガラと扉を開ける。窓際で、夕日に照らされた翔が立っていた。やはり、仲間も一緒だ。オレンジ色の光が、こちらを向いた彼の顔を一層憎らしく見せた。翔が一歩、僕に近付いた。

「なんだよ、話って。」

逃げたかった。唇が少し震えた事に、彼は気付いただろうか。ああ、でも駄目だ。言わなきゃいけないことがある。

翔の後ろにいた仲間の一人が、彼に言った。

「おい、翔。七海なんか放っておいて、さっさと帰ろうぜ。」

「煩い!!!」

叫んで睨みつけると、そいつは少し驚いていた。

「随分上からモノを言うんだな。」

翔が口を開いた。君も、随分上から人を見下すんだね。僕は彼を上目で睨み、彼の胸ぐらを掴んで窓に押しつけた。いきなりの事で事態が飲み込めない翔は、抵抗出来なかった。

「な、なんっ、」

「黙って聞け!」

大きな声で、彼の言葉を遮った。

「人をゴミみたいに扱うな!虫みたいに扱うな!人間以下に扱うな!」

それから床まで翔を倒し込み、彼の顔をじっと見た。瞳が揺らいで、怯えている。なんと言う事だろう。あんなに、あんなに恐ろしかった翔が、今はまるで蛇に睨まれた蛙のように、何も出来ずに震えている。息も荒く、恐怖の色を浮かばせている。

情けない───翔も、自分も。僕はこんなに弱い奴に、今までいじめられてきたのか。こんなちっぽけな、一人じゃ何も出来ない奴に。

瞬きをしたら今にも涙が零れ落ちそうな目で、僕に助けを乞うている様に見えた。僕は、はあ、と一つ息を吐き、力を込めた拳を翔めがけて思い切り振り下ろした。

ゴツ、と鈍い音が響いた。

拳は、翔の頬スレスレの床にめり込んだ。

当てなかった。当てる気を無くした。こんな奴、殴ったってどうにもならない。僕の価値が下がるだけだ。

翔は、床に埋まった拳を見て、それから僕に目線を移した。

自分でも、気付かなかった。僕はこの時、どうやら泣いていたらしい。声を出そうとすると、苦しくて、口の中に塩水が入ってきた。涙の味を感じながら、うわずった声で訴えた。

「なんでいじめた、なんでいじめた、なんでいじめた!」

壊れたからくり人形の様に、同じ言葉を何度も繰り返した。

「お前にとっては小さな遊びでも、僕にとっては大きな苦痛だったんだ!」

こんな状態の僕を見ても、翔は謝罪の一つもしようとはしない。掴んでいた手を振り解き、泣き崩れる僕からさっさと逃げるように立ち上がって襟を正した。

「行くぞ。」

そう仲間に言い、彼は教室を出て行った。残ったのは、しんとした静寂と、涙に濡れたいじめられっ子が一人。日の落ちかけた薄暗い教室の中で、僕は涙を拭いた。

やった。ザマアミロ。言ってやったぞ。

顔がにやけた。反抗も反抗。大反抗してやった。

土下座させれば良かったかな。火で炙ってやれば良かったかな。全裸にしてその小さな下半身を馬鹿にしてやれば良かったかな。僕が今までやられた苦痛を味わわせてやれば良かったかな。

いいや。これで充分だ。確かに、これで解決したわけじゃない。大変なのは、ここからなんだ。結局、努力も虚しく、きっと僕は明日もまたいじめられるだろう。だけど、これは大きな一歩。何かが変わってくれるって、信じてる。

 

目を真っ赤に腫らせた僕を見て、片倉は心配そうな顔をした。バーでは、もう仕事が始まっていたのに、カクテルを作る手を止め、入口外で待つ僕のところまで来てくれた。

大きな手で、僕の頬を包んだ。温かい。拳の痣に気付き、もう片方の手で優しく撫でてくれた。

多分、この時の僕ほど子供らしい顔をした子はいないだろう。へへ、と照れ笑いをして、報告。

「翔にカメハメ派、打ってやった。」

片倉は優しく微笑んだ。僕も笑った。彼は自分の胸に僕の身体を引き寄せ、まるで愛しい我が子を親がそうするように、抱き締めた。

「魔神ブーはどうなった?」

「びっくりしすぎで、声が出なくなってたよ。」

吹き出してしまった。思い出すと、やっぱりあの時の翔は、あほ面だった。

片倉は、僕の頭をぐしゃぐしゃにして、嬉しそうに言った。

「アンタ、最高よ!」

僕にはまだまだ課題がある。翔は、僕から少しは距離を置くだろう。でも僕は、まだあの教室で一人ぼっち。

大丈夫。頑張れる。

僕の周りには、誰がいると思っているんだ。愛する両親。ミカさん。そして片倉。僕はたくさんの人に囲まれている。そう思っただけで、それは大きな力になる。

そう言えば、時々朝に挨拶してくれる同級生がいたな。瞳の綺麗な、男の子だった。まずはその子と話してみよう。

空の青さ、海の深さ。人の優しさ。

そういうものを心に描きながら、僕は思った。

きっと僕は、幸せなんだ、と。