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大好きな両親には心配をかけないため、一応は制服で家を出たものの、学校なんかに向かう気にはなれなかった次の日の朝。どこに行くでもなく、ぶらぶらと放浪。寂れた繁華街にいた。

ゲームセンターにでも行こうかな。田舎町、今なら人も少ないだろう。しかし、金も無いし、別にゲームが得意ってわけでもない。

初めて「サボり」というものを経験する僕には、アテなどなかった。とりあえず、補導されない場所を選ばなければ。

そんな事を考えながら歩いていたので、声を掛けられた時は驚いて、鞄を落としてしまった。

まさか、もう警察に。落としたカバンを拾おうと、屈むついでに相手を見る。警官の制服ではなく、スーツを着た四十代くらいの眼鏡をかけた男の人だった。その人は、僕よりも早く鞄を拾い上げ、土を払って渡してくれた。礼を言って去ろうとすると、呼び止められた。

「ちょっと良いかな。」

不審者には、見えない。小綺麗な格好をしている。どこにでもいる、働き盛りのおじさんといった感じ。

どうせ、時間はたくさんある。僕が頷くと、男は嬉しそうに微笑んだ。僕の手を引き、どこかへ連れて行くようだ。掴まれたのが左腕だったせいもあるかもしれないが、妙に強い力で引っ張られている気がして、痛かった。

男はどんどん先へ進み、繁華街の裏へ回る。開店前の居酒屋が並ぶ商店街を通り過ぎ、チラホラと怪しい雰囲気の店が増えてきた。さすがに、どんなに鈍い奴でも、ここまでくれば男の行動に予想はつく。

多分、この人は僕を抱くのだろうな。

別に、どうでも良かった。時間を潰せればなんでもいい。それに、ラブホテルなら補導の心配もない。翔も言っていた。「ウリでもやってんじゃねえの。」その言葉、本当にしてやろうか。

ラブホテルの敷地内に、最初の一歩を踏み入れた時だった。

「ちょっとお兄さん。何やってんの、こんな昼間から。」

ハスキーな女の声が、僕と手を引く男を呼び止めた。見ると、カツカツと赤いハイヒールの音を響かせ、こちらに向かってくる女性がいた。右手には細長い煙草。左手を腰に当て、黒いキャミソールドレスを着ている。羽織っているのは毛皮のジャケット。明らかに、水商売の女。

女は僕の目の前で足を止めた。背の高い人だ。ヒールを履いているとは言え、僕よりも大きい。僕が小柄な方なだけかもしれないけれど。

女は少し屈んで、僕の顔にフーと煙草の煙を吹きかけた。副流煙を大量に吸い込んだ僕は、ゴホゴホと咳き込む。男は依然として僕の腕を掴んだまま離さない。突然現れた女を睨みつけている。女は、そんな男の視線には目もくれず、僕に話し掛けてきた。

「ふうん。まあ、可愛い顔してるけど、私ほどじゃないわね。ねえあなた、自分が今、されようとしてる事、分かってる?勿体無いわよ。その体穢すなんて。」

「あなたに関係ないでしょう。」

「そうね。ふふ。強気な子。好きよ。」

全くもって先が読めない。もうこんな女放っておいて、中に入ろう。そう思って向き直り、足を出そうとすると、ヒールで踏みつけられた。結構痛い。

女の靴を、それから顔をキッと睨む。女は笑っていた。

「そんな男じゃなく、私と来ない?」

突然の一言に、驚いた。男と二人、耳を疑った。

「その人が君にいくら払ったか知らないけれど、こっちは五万でどう?」

五万どころか、この男は僕に金などくれていない。僕自身、稼ぐためについてきた訳でもない。でも、タダ働きと五万なら、当然五万をとる。

僕は金に釣られて、男の手を払い、女の方へ移動した。男はとても残念そうだった。

女は自分の元へ来たカモの肩に、その細く長い腕を絡ませた。どきりとした。触り方が、あまりにも妖艶だったから。

女は僕の肩を抱き、その場を去った。

 

「君は、普段から援助交際してるの?」

歩きながら、女は聞いてきた。首を横に振る。

「身体を売った事はありません。」

女はそんな僕の顔を覗き込んだ。切長の目が、僕をじっと観察する。女の顔が近すぎて、戸惑った。真っ赤な唇が色っぽくて、煙草の匂いさえ、お洒落に感じた。なんて美しい人なのだろう。

「あの、あなたは、」

もごもごと小さな声で、必死に尋ねた。そんな僕を見て、女はくすりと笑う。優しい笑顔だった。

「私は、ミカ。ホステスよ。そう言う君は、ナナミ アイくんでしょ?北高校の、二年生。」

「え?」

女の言葉に驚いてしまった。なぜこの人は、そんなに僕の情報を知っているのか。エスパーか、犯罪者か。

女は笑いながら、続けた。

「そんなにびっくりしないでよ。私は片倉の知り合い。君の事は、彼から聞いたの。」

世界はなんと狭い事か。こんなところで、片倉の知り合いに出会うなんて。しかし、

「なんで、僕だって分かったんですか?」

「あら、知らないのか。大輔の携帯にね、君の写真が入ってたのよ。それを見せてもらったの。確か、バーで皆に囲まれてる写真だったと思うけどもしかして、知らなかった?」

片倉のやつ、今度会ったらぶん殴る!

「でも、写真以上ね。あなた、とっても素敵。これじゃあ世の中のおじさま方は黙ってないわね。」

やっぱり僕は、変態受けする顔なのだろうか。これまでにも何度か見知らぬ男に声を掛けられたが、付いて行ったのは今日が初めてだった。怖くなかった、と言えば嘘になる。ミカさんが助けてくれた時、正直ほっとした。男に抱かれるなんて、やはり未知の恐怖だ。

そんなお喋りをしていると、いつの間にか一軒のスナックに着いた。ミカさんはおもむろに扉を開け、僕に手招きをした。僕はつられて、中に入る。

古臭い外見とは裏腹に、中はとても綺麗で、清潔感のある店だった。ミカさんはそばにあるソファに腰掛け、僕にも座るよう促した。

見た目よりも硬いソファに座って、ミカさんを見る。タバコに火を点けていた。多分この人は、ヘビースモーカーとか言う種族なのだろう。

「あの人、面白いでしょ?」

煙をもくもく口から吐きながら、ミカさんは尋ねた。

「はあ。僕は初対面で、命の大切さを語られました。」

紫煙の先を眺めながら、僕は答えた。その一言を聞くと、ミカさんはピクリと反応し、俯いてしまった。

僕は何か悪い事でも言ってしまっただろうか。不安になっていると、ミカさんは静かに口を開いた。

「あの人恋人死んでるのよ。自殺で。」

耳を疑った。片倉の、恋人が、自殺。

「とても良い人だったんだけど、人間、金が絡むと人が変わるもの。会社の金を横領だとか難しい事はよく分からないけど、それで首が回らなくなったとかで、飛び込み自殺しちゃったみたい。大輔の目の前で。」

僕は目を閉じて、想像してみる。

がらんどうのホーム。仲良く手をつないで笑う片倉と恋人。流れるアナウンス。「二番線、電車が参ります。」その時突然、恋人は片倉の手を離す。一人で線路に向かい、それから───

「大輔は彼が大好きで、彼も大輔を大切に想っていた。だからこそ、迷惑は掛けられないと思って、一人で死んだのね。」

「でも!」

拳に力が入った。

「そんなの、勝手すぎる!やる事だけやって、格好良く消えていくなんて。残された片倉の気持ちも!」

そこで僕はハッとした。今僕が言った言葉は、あの屋上で、片倉と初めて会った時に言われた言葉と変わらない。

「誰かが死ねば、誰かが悲しむ。」

震える声で訴えられた。命の尊さ。死の重さ。それを片倉は、身を持って知った。そう考えると、涙が出た。

まさか、この僕が、他人を思って泣くなんて。信じられなかったが、現実だった。拭いても拭いても、滝のように溢れ出る。止まらない。止められない。声まで出した。苦しくなるくらいに。

あんなに明るくて、馬鹿で、お人好しで。そんな暗い過去を持っているなんて反則だ。今度本人に会ったら、泣き出してしまいそうだ。

嗚咽する僕をミカさんは抱き締めた。女性の柔らかさ、温かさ。ミカさんの優しさが、肌に伝わってきた。

「なんて良い子。」

そんな事ない。良い子なんかじゃない。僕はいつだって、自分の事しか考えていなかった。他人の不幸なんて、どうでも良かった。同情を誘う奴が、大嫌いだった。

バカ片倉。最初から言ってくれていれば良かったのに。「自分は可哀想な人です」って。そうすれば僕は、あんたなんかの為に泣く事はなかったのに。嫌いだ。嫌いだ。嫌いなはずなのに今僕は、あなたが愛おしくてたまらない。その優しさ、心の強さ。僕はあなたを尊敬する。

幸せになってほしい、と願う。

 

午後になって、バーに行った。片倉の顔が見たくなったから。

真っ赤に腫れた目で看板を見る。電気は点いていない。まだ開店時間には、ほど遠い。

仕方なく、近くの公園の、子供用のブランコに腰掛けた。もうほとんど体育座りと変わらない姿勢。これなら地べたに座った方が楽な気がする。

空を見上げた。ああ、穢れなき青空。雲はゆっくりと時を刻んでいく。僕と同じ名前の色の空。

下を見ると、足元で蟻が行列を作っていた。こいつらは働くことに生き甲斐を感じている。働く事が楽しいと言う。僕は、どうだ。今まで生きてきて、楽しいと思えた事は、いくつあった。今の生活は楽しいか。

翔がいる限りそう思っていた。でも、それだけじゃあないんだ。僕自身も変わらなくちゃ。もっと優しく。もっと強く。誰よりも何よりも、他人を思う気持ちを大切に。

これは、僕が解決すべき問題。

バーはまだ開かない。僕は意を決して、携帯電話を取り出し、ボタンを押した。