-4-



その後しばらく、僕は学校では翔にゴミをかけられた。ひどい時には女子トイレのゴミまで。つんとした臭いが、とても不快だった。
でも、こんなの逃げ道がある分まだマシだ。少し前には、焼却炉に閉じ込められた。その時は燃やされる直前で、用務員さんが気付いてくれたから助かった。
「反抗した罰だ。」と翔は言った。反抗なんて、してもしなくても、結局僕をいじめてくるじゃないか。
ある日、翔に呼び出され、放課後人気のない校舎裏へとやってきた。また閉じ込める気だろうか。いや、翔は一度やって効き目の薄かった事は、それっきりやめる。焼却炉も、火をつけにくる誰か、あるいはゴミを捨てにくる誰かに助けられてしまう、という欠点に気が付いてからは、やらなくなった。
と言う事は、また新しい「遊び」でも思い付いたのだろう。
少し遠くで、耳に痛い笑い声が聞こえた。けたたましい笑い声と共に、翔たちがやってくる。彼らはいつも、四、五人のグループで行動する。一人じゃ何も出来ない弱虫たち。
「来てくれたんだな、嬉しいぜ。」
僕に気付いた翔がそう言うと、後ろに引き連れた仲間がゲラゲラと笑う。僕は黙って俯いた。
何をする気なんだろう。
初めは、予測出来なかった。しかし、翔が右手で仕切りにカチャカチャと弄っているものに目をやると、それははっきりと、僕の中にも明確なビジョンが見えた。
遅かった。翔の仲間達は、僕の身体を地面に押さえつけ、動けないように跨った。僕は必死に抵抗したが、こいつらの方が僕より格段に力が上だと言うことを身をもって知った。
右手を背中に回され、左手を無理やり引っ張り、セーターの袖を捲る。伸び切った左手に、翔の遊具が近付いてきた。───ライターだ。
僕は叫んだ。が、口を手で塞がれ、声が出ない。翔は構わず、僕の左腕に火を付けた。
まさか、本当に。本当にこんな事を。心の中で大きな声で助けを求める。上に乗られているので、逃げるに逃げられない。
チリチリという皮膚を炙る音が、耳に痛い。熱さで頭が真っ白になる。もう嫌だ。なんでここまで。
翔はどんどん黒ずんでいく腕にライターを当てながら、笑っている。
「お前、骨と皮しかないからな。骨は炭素だから、よく燃える。」
普段は生物の授業なんて聞いてもいないくせに、どうしてそんな事ばかり覚えているんだ。
周りでは「臭い」だの「匂う」という声が聞こえた。
だめだ、だめだ、だめだ。痛み以外のことに集中しようとしても、不愉快な声やライターの日で炙り焼きされている自分の腕の臭いが邪魔で、何も考えられない。目の前で起こっている事がなんなのかも、もう理解出来ない。
ただただ、熱い。翔の憎らしい笑顔が霞目に映る。あの目、あの鼻、あの口、全てが大嫌いだ。何をそんなに楽しんでいられる。こんなのちっとも、面白くなんかない。人を傷付けて笑えるなんて、お前は何処ぞの戦争愛好独裁者か。
痛い。熱い。僕はこのまま、焼け死んでしまうのだろうか。
その時、向こうで人影を見た。しかし、僕の意識はそれを最後に途絶えてしまった。

目が覚めると、白い天井、白い布団。学校の保健室だった。
全てが白いこの空間を眺めながら、僕は考えた。どうしてここにいるんだっけ。
ああ、そうだ。鮮明な記憶。確かな熱。翔に腕を炙られたんだっけ。思い出すと、左腕に痛みが走った。見ると、綺麗に包帯が巻かれている。
「起きたか。」
白いカーテンが開き、あの頼りない担任教師が姿を見せた。視界に入るだけでイライラする。
「校舎裏の花壇の手入れに行った先生が、お前に気付いてな。駄目だろう、あんなところで火遊びなんて。早川たちが止めてなきゃ、今頃黒焦げになっていたぞ。」
え…?
斎藤の言葉が、脳内を駆け巡る。「早川たちが止めてなきゃ」?
ちょっと待って。僕の腕を焦がしたのは、その早川翔だ。そう反論したかったが、声が出なかった。斎藤の背後で立っている翔たちが、僕を睨んでいる。
嘘をついたんだ。自分の身を守るために。
「前にも言ったが、私はお前の力になりたいんだ。七海、何かあったなら、相談しろ。遠慮なんかするな。先生はいつでも、お前の味方だぞ。」
キレイゴトを抜かすな。それならどうして、どうして翔の言う事なんか信じるんだ。僕の事を考えてくれているなら、嘘くらい見抜けるはずだろう。分かるだろ。誰に、どれだけ酷い事をされているかって。
僕は黙ってベッドから起き上がり、そこにいる人々を避けて保健室を出る。
「親御さんには、連絡しておいたぞ。」
扉を閉める直前に、斎藤にそう言われた。ちらりと振り返り、翔に視線を移してから、睨みつけて出ていった。

校舎を出ると、校門の前に見慣れた国産車が停まっていた。バンパーに擦った痕。父さんだ。
運転席の父は、僕に気付くと助手席の扉を開けた。僕は黙って乗り込む。エンジンをかけると、車はゆっくりと動き出した。久々に嗅いだ、父の匂い。常用しているメビウスの香り。こんなに近くに父がいる。とても久しぶりだ。
車内では、しばらくの間沈黙が続いた。お互い言葉を探しあっていたのかもしれない。先にそれを破ったのは、父の方だった。
「藍、一体何があったって言うんだ。父さんも母さんも、お前を大事にしているっつもりだった。でも、物足りなかったか?腕を焼くほどヒステリーになるなんて。」
「違う!」
思わず大きな声で否定した。ねえ、聞いて父さん。自分でやったんじゃない。これは───…言えなかった。
よく考えたら、いじめられていると言う事実の方がよっぽど惨めじゃないか。あなたの息子は、クラス中に嫌われています。ゴミと呼ばれています。そんな事、親に言えるわけがない。自分のせいにした方が、マシだ。
父は、僕の言葉の続きを待っていた。
「父さん…。」
小さな声で、父を呼ぶ。
「俺の事、軽蔑する?」
「そんな訳ないだろう。」
父は、優しく言った。
「早く帰って、落ち着こう。母さんも帰っているはずだから。まあ、抜け出してきたからまた会社に戻らなきゃならんが、少しくらいなら一緒にいられるだろう。久しぶりに三人で話そう。」
ああ、僕はなんて、親不孝者なんだろう。僕の両親はこんなにも良い人なのに。
正直になれない自分が、恨めしかった。

家に着くと、玄関の前にコートを羽織った母が立っていた。心配で家の中では待ちきれず、外に出ていたらしい。頬が赤くなり、吐く息は真っ白だ。いつからそこにいたのか。僕が帰ってきたのに気付くと、車に駆け寄り、僕を抱き締めた。僕より背の低い母だが、その時の母の身体は、僕よりずっと大きく、温かく感じた。
左腕の包帯を見た母は、とても悲しそうな顔をした。それから、先ほどよりもずっと強い力で、僕を包み込んだ。
「藍、大好きよ。」
耳元でそう囁かれて、涙が溢れそうなのを必死に堪えた。
僕は、わがままで、自己中心的で、本当に最低な人間だ。二人はこんなにも、僕を愛してくれているというのに。僕は自分ばかりを可哀想がって、二人の気持ちを考えもしなかった。同じ食卓に並べなくたって、それでいい。別々の場所でも、お互いを想うだけで、満足じゃないか。
家の中で、三人で少しだけ話をした。腕の火傷は不可抗力である、と。それでもやはり、いじめられていることを言い出すことは出来なかった。この優しく温かな両親を心配させたくない。
父も母も会社に戻り、僕はいつものごとく、この一軒家で一人になった。ソファに腰を下ろし、ぼうっと壁に掛けてあるカレンダーを見つめた。
左腕の包帯を解いてみた。皮が剥けている。指で触れると、針に刺されたような、ちくりとした痛みが走った。綺麗に剥いてしまおうかと思ったけれど、やっぱりやめた。包帯を巻き直す。上手くいかない。
クッションに顔を埋めながら、僕は考えた。
どうして翔は、僕をいじめるのだろう。これは、毎晩思う疑問。
色々理由を模索しているけれど、本当は分かってるんだ。理由なんて、ない。ただ、自分より弱い立場のものを痛めつけ、自分の強さを証明したいだけ。人を見下すことにより、自分の地位を維持したいだけ。
その標的が、たまたま僕だっただけ。
運悪く、百本中一本のハズレクジを引いてしまっただけなのだ。
分かっている。分かっているけど。理不尽すぎるではないか。僕は何もしていないのに。
だから、毎晩理由を作る。それでもやっぱり、結論は一つ。ハズレクジ。仲間に入れないコウモリ。
大嫌いだ。こんな世の中。