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僕の家は、両親は共働きで、所謂鍵っ子ってやつ。家に帰ると、いつものごとく誰もおらず、台所のダイニングテーブルの上には、書き置きと五千円札が置いてあった。
「今日も遅くなります。これで適当に食べてください。」
母からのメモ。朝早く、夜の遅い両親とは、休日以外は夜中に起きた時くらいしか、ほとんど顔を合わせない。だからこそ、昨夜担任に電話したことには驚いた。靴が無かったからかもしれないけれど。
それが、当たり前。僕を養うために働いてくれている。分かっている。分かっているけれど、たまには家族三人賑やかな食卓を囲みたい。それは、無理な我儘だろうか。
冷蔵庫の機械音が部屋に響く。父さん、母さん、今日もあなたたちの息子は、あなたたちの知らないところで、酷な人生を送っています。
こう見えて、僕は結構なかなか料理が得意だ。しかし、今日はなんとなく、自分で作る気が起きなかった。だからと言って、近くの定食屋は休み。出前もコンビニ弁当も、なんだか味気ない。さて、どうしたものか。
その時、ふと思い出し、鞄の中を漁って取り出した名刺。

バー エミカ
バーテンダー 片倉大輔

あまり気は進まないが…。
ワンドリンク無料の誘惑に惹かれ、僕は家を出た。

名刺に書かれていた住所は、僕の家から十五分ほど歩いたところにあった。紫に黒字の看板。怪しく光るネオン。扉の前まで来たのはいいものの、足がすくんだ。いざとなると、やはり恐怖心というか、なんだか少し、いやかなり怖い。大人の店なんて、未知の世界だ。
それに、あいつがいなかったら?その上、誰かにここに入るのを見られでもしたら?翔や学校の人間の耳に入ったら、また僕を馬鹿にするだろう。「オカマの藍ちゃん」とか言って。
やっぱりよそう。そう思った時だった。
「七海 藍。」
聞き覚えのある低い声。慌てて振り返った。
片倉大輔が、そこにいた。
「早速来てくれたのね。」
片倉は僕の腕を掴んで、中に引き入れた。多少なりとも抵抗はしたが、非力な僕のそんな行為は無意味だった。明らかに、片倉の方が力は上だ。
しかし、中に入って驚いた。これが本当に男なのか。そう思わせるくらいの美人揃い。こういう店に来たのは初めてだが、かなりレベルの高い店なのではないだろうか。
唖然としてその光景を見ている僕に、一人の茶髪のロングドレスが気付き、話し掛けてきた。
「ちょっと大ちゃん。何この子。誘拐でもしてきたの?」
声は、やはり男だった。結構低い。
「そんな訳ないでしょ。可愛いお客さんよ。」
片倉がそう言うと、店にいた大勢のオカマがどっと僕に群がってきた。僕は驚きのあまり動けなくなり、それを良いことに彼(彼女?)らは僕の髪を撫で、頬を突つき、挙句耳まで齧ってきた。
「柔らかそうだから、食べちゃった!」
なんなんだ、この空間は!
だんだん怖くなってきて、群れを掻き分けトイレへと逃げ込んだ。耳を鏡に写すと、少し赤くなっている。
一秒でも長く、ここにいてはいけない気がする。しかし、どうやって外に出ればいいのか。扉はオカマが群がるあのフロアにしかない。どうすれば。
そんなことを考えていると、トイレの扉が開き、正装した片倉が入ってきた。
「アンタ、大人気よ。初々しくて、可愛いって。」
嬉しくない。
片倉の姿をまじまじと見て、確信した、本当にバーテンダーだったのか。意外と、格好良い。
僕の目線に気付いた片倉は、蝶ネクタイを直しながら言った。
「これで信じた?アタシは本物よ。」
それから、僕の肩をポンと叩く。
「さ、お客さん。ワンドリンクサービスですので、どうぞこちらへ。」
フロアへ戻ると、スタッフは接客で忙しそうだった。もう僕なんかに構っている暇はないだろう。
僕は片倉に誘導され、人の少ないカウンター席へ腰を下ろした。こうしてみると、客って男ばかりじゃないんだな。少数ながらも。女性もちらほらといる。老若男女問わずと言うやつか。
ガタガタと、ガラスケースからカクテルを作る道具を取り出す片倉。新春隠し芸なんかでよく見るカップや、変な形のものやら。後ろの棚には色とりどりの酒が並んでいて、まるでクリスマスツリーのようだった。
一通りの準備を終えて、僕に向き直り、素晴らしい営業スマイルを向ける。スマイルゼロ円。顎髭が目に染みる。剃れば良いのに。見た目はやはり、屈強な男性だ。
「何にする?」
僕は少し考えてから、答えた。
「じゃあ…スコッチ。」
「子供が何言ってんのよ。ノンアルに決まってんでしょ。」
リンゴジュースと、梨のジュース、レモンシロップを入れてシェイカーで混ぜる。シャカシャカという音が、耳に心地良い。グラスに注がれたそれは、綺麗な黄金色で、本当にお酒みたいだった。
「白雪姫って言うのよ。ノンアルコールのカクテル。」
そんなくすぐったい名前のカクテル、男子高校生に飲ませるか。しかし、ふわりと香るいい匂いに、思わず一口。
「…美味しい。」
ふふ、と笑いながら、ポテトチップスやチョコプレッツェルの入ったバスケットを出してくれた。乾き物、とかいうやつだ。
「それは、アタシの奢り。」
少々躊躇ったが、見た途端に腹の虫が鳴った。空腹には敵わない。勢いよく頬張ると、片倉は唖然として、その光景を見ていたが、やがて息を漏らした。
「アンタ、そんなにお腹空いてたの?…仕方ないわね。藍、時間ある?アタシ八時から九時まで休憩入るから、その時どっか連れてってあげる。」
「本当?!」
ポテトチップスを口いっぱいに入れたまま、もごもごと喋る。思わず大きな声を出してしまった。片倉が小さく笑っているのに気付いた。恥ずかしい。
僕は即座に下を向き、黙って白雪姫を飲んだ。少し、大人の味がした。

片倉は、近くのガード下の屋台のラーメン屋へ連れて行ってくれた。これがまた、すこぶる美味い。屋台の主人も人柄がよく、なんでも美味しそうに食べる僕を見て気分を良くしたのか、チャーシューをおまけしてくれた。
「美味しいでしょ?」
スープをレンゲで上品に口に運びながら、片倉が尋ねた。僕は細めの麺を啜りながら頷いた。一人じゃない、誰かとの夕食なんて久しぶりだ。
器を持ってスープを飲む。湯気で目の前が真っ白になった。片倉は、優しい笑顔で僕を眺めている。
その時、片倉の微笑んでいた目が、僕の後頭部へと移った。僕はハッとして、慌てて手で押さえる。その手を片倉は、乱暴に引き剥がした。
「藍…なんなの、この傷は。」
僕は何も言わず、ただ、スープの中をいまだに遊泳しているナルトに目をやった。恥ずかしいのか悔しいのか、分からない感情がこの模様と同じくぐるぐると頭の中を渦巻いている。
僕の傷口にそっと触れる片倉の手。その手が傷を撫でた途端、僕の目に涙が溢れた。わんわんと声をあげ、泣き出した。
「ご、ごめん。痛かった?」
屋台のテーブルに突っ伏して、首を横に振る。それから再び、声を大にして泣いた。
主人は突然の出来事に、少し驚いた様子だったが、黙って僕に水を差し出した。
「十七にもなって恥ずかしい。」片倉が次に発するであろう言葉を予測しながら、一通り泣いた僕は、顔を上げた。腫れ上がった目で彼を見る。
片倉は、何も言わなかった。
ただ、僕の背中をぽんぽんと二回叩いただけだった。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは片倉の方だった。
「アンタの問題なんだから、解決できるのはアンタしかいないけど、話を聞く事くらいなら出来るわ。学校に行きたくなかったら、うちの店に来てもいい。いつでも、待ってるわよ。」
「出来るなら…行きたくないけどね。」
うわずった声でそう言うと、僕のぐしゃぐしゃに濡れた顔を自分の袖口で拭きながら、くすりと笑ったが、それ以上は何も言わなかった。