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翌日は、朝から職員室へ直行だった。どうやら昨晩、なかなか帰ってこない息子を心配した母が、担任に電話していたらしい。僕はずっと、学校にいたと言うのに。
「昨日の夜、一体どこで何をしていたんだ、七海。」
担任教師の斉藤は、職員机の上で腕を組んで、ため息混じりに言った。ごちゃごちゃと教科書やら書類やらの積まれた机は、斎藤の人柄を表している。本当は、ただの怠慢教師なのだ。こう言う時だけ先生ぶる。
斉藤は、僕が学校にいたことを知らないらしい。片倉、僕のこと話してないのか。
何も喋ろうとしない僕に、斉藤は優しい声音で続けた。
「先生はな、怒ったりしないさ。だが、お前の親御さんには、きちんと事情を伝えるべきだろう。だから…」
反吐が出る。学園ドラマみたいな典型的な台詞。
「先生。」
長台詞を並べていた斎藤に横槍を入れ、僕は無表情で声を掛けた。
「先生は、一九九九年のノストラダムスの大予言をご存知ですか?」
「あ?ああ…。」
何の脈絡もない質問に、斎藤は少し動揺した様子だった。
僕は続ける。
「どうして当たらなかったんでしょうね。その時地球が滅亡していれば、先生のそのうわべだけのクサイ台詞を聞かなくて済んだのに。」
口をあんぐりと開けて、呆然とする斎藤。僕は「失礼します。」と頭を下げ、職員室を後にした。背後で放心状態に陥る斎藤の視線を感じたが、全力で無視をした。

朝の教室は、ガヤガヤと騒がしくて苦手だ。僕は自分の席に座ると、そこから極力動かない。人に触れない。いじめられっ子なんて、そんなものだと思う。
しかし、その「極力」というのは「出来るだけ」という意味で、そりゃあ例外もある。自分から行動しなくたって、向こうから近付いてくる。負のオーラを醸し出しながら。
「よお、七海。」
顔は動かさず、目だけで反応する。嫌な声。嫌な姿。僕を毎朝親以外に最初に名前で呼ぶ者。早川翔。
とても人を蔑んだ目で見る彼は、自分以外は全て弱者だと思っている勘違い野郎。大嫌い。
翔は、僕の机の端に手を置き、見下しながら言った。
「落ちなかったんだな。今日来なかったら、机に菊でも生けておいてやろうと思ったのに。」
後ろで、翔の仲間がくすくすと笑っているのが聞こえた。僕は何も気付いていないふりをする。気にしたら、負け。
飽きることなく僕の悪態をつく翔を頭の中でシャットダウンして、僕はただただ机の一点を見つめた。聞こえない。何も、聞こえない。
すると突然、ガタン、と大きな物音。翔が、僕の机を蹴飛ばした。
「聞いてんのかよ、藍ちゃん?」
猫撫で声で名前を呼ばれ、思わず睨みつけてしまった。しまった。このまま無視していれば良かったのに、僕は彼の挑発に乗ってしまった。
腕をぐいと掴んで、いきなり引っ張られた僕は、勢い余って椅子から転げ落ちた。
「細え腕。」
そう言って、彼は僕の顎を指でくいと上に向けた。
「どうせ、ウリでもやってんだろ。その女顔で、何人の変態男と寝たよ。え?」
その言葉にかっとなり、僕は翔に殴りかかった。が、僕の小柄な身体は翔とは対照的すぎて、簡単に押さえ込まれてしまった。
どんと押され、ひっくり返った僕の足元に、椅子を思い切り投げつける。かすった程度だが、驚いて肩が震えてしまった。それから胸ぐらを掴まれ、ずるずるとロッカーのある教室の後ろまで引き摺られ、頭をそこに打ち付けられる。当然、僕の後頭部からは赤黒い血が流れた。
それを見ていた何人かの女子生徒は、口に手を当てたり、小さく叫んだりしていたが、翔を止めようと動く者は誰もいなかった。
彼は顔を近付け、低い声で言った。
「調子に乗んじゃねえぞ。」
手を離し、自分の席に戻る彼の背中をぼうっと見ながら、始業の鐘の音が頭に響いた。まだ、先生は来ない。
僕はその場に座り込んだまま、後頭部に手をやる。痛い。やっぱり切れている。ポケットからハンカチを取り出し、傷口に当てた。水色のハンカチは、すぐに紫色へと変化した。
こんな状況でも誰も手を貸そうとしない。立ち上がって、黙って保健室へ行く。
こんなの、いつもの事だ。
このクラスでは、全員が敵なのだ。

放課後、本日二度目のお呼び出し。勿論、頭の傷の事だ。
告げ口するつもりは、無い。正直に言ったところで、何も分かっていない教師共に一体何が出来るというのか。それに、その事が翔にでも知られれば、もっと酷い目に遭わされるに違いない。期待なんて形のないものには、縋りついたりはしない。
斎藤に色々聞かれたが、僕は適当な言い訳をした。「階段から落ちました。」
斎藤は疑っているようだったが、ため息をついて椅子をぎしぎし言わせる。まあ、当然だ。昨日も「階段から落ちた」のだから。その前も、その前も。
「あのなあ、七海。」
僕の方に手を置いて、言った。
「何も恥じることはないんだぞ。正直に話せ。先生は、お前の力になりたいんだ。」
正直に言ったって、あんたに何が出来るっていうんだよ。そう言いたかったが、口を慎んだ。
「階段から落ちるのは、そんなに恥ずかしいことですか?」
僕がそう言うと、斎藤は困惑した。
「あ、いや、」
「階段から、落ちたんです。さっきからそう言っています。」
焦る斎藤は書類を片手で弄りながら、僕から目線を逸らす。
「そ、それならいいんだ。うん、帰っていいぞ。」
「失礼します。」
斎藤の毛深い手をチラリと見て、偽善者ゴリラ、と声に出さずに口だけを動かした。