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「悪いけど、死んでくれる?」

 

それまで仲の良かった友人にそう言われたのは、高二の夏休み明けだった。その日から僕は、理由も分からないいじめに合うようになったのだ。

言っておくが、僕は彼を傷付けたり、困らせたりした覚えは、一度だって無い。少し理屈っぽいところがあったかもしれないけれど、それでも彼に酷い扱いをした事なんて、無かった。

それなのに、何故だかいきなり「癪に触るから」という理由から、靴を隠されるようになったのだった。

 

そうして現在、僕は学校の屋上にいる。

「落ちてみれば?」と言い放ち、彼を主犯としたいじめっ子グループに、この広い屋根の無い空間に取り残された。ご丁寧に、鍵まで掛けて。

見上げると、一面の星空。オリオン座、冬の大三角形。冬は空気が澄んでいるから、星の観察がしやすいなんて言うけれど、実際こんな寒空の下に一晩中いたら、風邪を引いてそれどころじゃなくなるだろう。

一体、何時間くらいここにいるのだろう。屋外は真っ暗、暗の暗。夜はこふこふとふけまする。なんて、今日授業で習った詩を思い出したりして。余裕があるな、と自分でも思う。

ここまでくると、人間とは案外、全てを投げ出したくなってしまう生き物なのかもしれない。ああ、本当に落ちてみようか。そんな自殺願望一歩手前の考えが、頭を過ぎる。

いや、しかし、思い留まる。それでは奴等の言いなりになったようで、なんだか癪だ。折角本当に自殺するなら、遺書を書かなくちゃ。あいつらの名前を一人一人文面に綴って、死して尚責め立ててやらなきゃ、僕の気が済まない。

フェンス越しに夜の街を眺めた。

綺麗だ。

この美しい田舎町に、僕が今こうしている事に気付き、助けてくれる人なんているのだろうか。いないだろうなあ。

 

「何やってんの、こんな時間に!」

 

突然、背後で男の声がした。驚いて振り返ると、鍵が掛かっていた筈の扉が開かれ、その前に、金髪の背の高い男が仁王立ちしていた。手には懐中電灯、ジーンズのポケットには、収まりきらない鍵束。

男はフェンスに張り付いている僕に、光を向けた。暗闇に目が慣れてしまっていた僕は、そのあまりの眩しさに目を細める。男は僕に明かりを当てたまま、こちらにゆっくりと歩いてきた。近くで見ると、余計に大きい。

僕の顔を不審そうに眺め、制服に目をやり、腰に手を当てて言った。

「アンタ、ここの生徒ね。」

顔に似合わないオネェ言葉。低い声で、問い詰めてくる。

「何やってたのよ。こんな時間に、こんな所で。」

俯いて黙ったままの僕に、男は続ける。

「まさか、クスリでもやってたんじゃないでしょうね。」

「んな訳、ねーだろ。」

やっと口を開いた僕に、再び尋問した。

「じゃあ何、自殺?」

「まあ、それも少し考えたけど。」

すると、男は突然僕の頭を掴み、フェンスに打ち付けた。フェンスがクッションになったので、大して痛くはなかったが、僕は驚いて目を丸くした。

「馬鹿な事、言ってるんじゃないわよ!」

大きな声で、僕を怒鳴りつける。

「アンタね、自分が死んでも誰も悲しまないと思ってるんでしょ。それなら大きな間違いよ。誰かが死ねば、誰かが悲しむ。世の中って、そういう風に出来てるの。」

僕を掴んでいた手を離し、膝をついて小さな声で呟いた。

「まだある命を簡単に投げ出すんじゃないわよ。」

誰かに言い聞かせるように、泣いているように見えた。影になっていたので表情までは分からなかったけれど、左手に持っている懐中電灯が男の手元を照らし、数滴の雫を輝かせた。

声が掛けられなかった。何も言えなかった。彼に対する反省心とか、そんなんじゃあない。ただただ、自分が情けなく思えたから。

死を簡単に見てはいけない。それはとても重く、苦しいものなのだ。

こんなに怒られたのは、生まれて初めてで、どうしたらいいのか分からない。

「ごめんなさい。」

溢れるように口から出た言葉。それを聞いた男は、パッと顔を上げ、にっこりと笑いかけた。

「素直でよろしい。」

涙の跡なんて、無い。嘘泣きだ。完全に騙された。そう思うと、途端に腹が立ってきて、僕は鍵の開いた扉へ、男を残して向かって行った。男も急いで後を追いかける。僕は振り返って、嫌悪感たっぷりの顔で男を睨みつけた。

「だって、」

男は、僕の心の内を察したように言った。

「昇降口の鍵、閉まってるのよ。アタシがいなきゃ、帰れないでしょ。」

 

そのまま昇降口には行かず、先に荷物を取りに教室へ向かった。例の如く、男も一緒。

男に鍵を開けてもらい、教室に入ると、昼間の喧騒とは一変、ひんやりとした空気が流れた。暗かったが、もう目も慣れたもので、電気なんてつけなくても周りの輪郭線ははっきりしていた。逆に、今明かりをつけられたら僕の目は潰れてしまうかもしれない、なんて大袈裟なことを考えたり。

僕は自分の机、真ん中の列、前から四番目の席へと歩く。机の上には、ビリビリに破かれ、最早教科書とは言い難いものが散乱していた。それを使い込んだ鞄にさっさと詰め込んでいく。

なるべく、男には見えない角度で入れていったつもりだったが、どうやら気付かれたらしい。僕の手を止め、教科書を奪った。

「待ちなさい。」

「なんだよ。」

「何、このゴミ。」

資源ごみのような教科書を持ち上げ、言った。下を向いて黙っている僕を見て、男は静かに納得する。

「アンタそういう事。」

取り返した教科書を鞄に戻す。依然として黙っている僕に、男は声を落として続けた。

「だから自殺なんて考えたのね。アイ。」

自分の名前を呼んだ男を睨みつけるように顔を上げる。

七海 藍。

これが、僕の名前。

両親は、「海や空の青さのように、広く美しい心を持った人間に」と言う意を込めて、この名を付けてくれた。しかし、実際はどうだ。僕の心は美しい藍色なんかじゃない。黒く汚れた曇り空。酸性雨。ヘドロの海。名前負けもいいところだ。

「良い名前じゃない。」

僕の鞄に付けられた名札を見て、言った。

「どこが。」

「あら、素敵よ?」

ぶっきらぼうに答えた僕に対して、男は明るい笑顔で褒める。

「男にも女にも合う名前だし、美しいわあ。アタシなんて、大輔よ。片倉大輔。可愛さのカケラもありゃしない。」

思わず吹き出してしまう。オネェ言葉のオカマが、大輔。これも名前負けしてるよな。確かにこいつ、逞しくて、見た目は男らしいけれど。考えていると、また笑ってしまった。

そんな僕を見て、片倉とかいう男は優しく微笑んだ。僕は慌てて、元の仏頂面に戻る。

「どうしてそんな顔、するかなあ。」

ため息混じりに、言った。

「笑ってた方が、可愛いのに。」

寒気がし、後ろに一歩下がる。それを見て片倉は笑う。

「別に襲いやしないわよ。」

自分の顔が赤くなるのを感じた。こいつ、僕を馬鹿にしている。

自分が見下されるのは嫌いだ。だからいじめも、本当はすごく嫌だっていうのに。

まとめた荷物を肩に背負い、つかつかと教室を出た。片倉も、慌てて鍵を閉め、追いかけてくる。

「七海 藍。」

早足で歩く僕の名を呼ぶ。追いつくと、隣に並んだ。

「何怒ってるのよ。」

「別に。」

「意味分かんない。子供ね、アンタ。」

「子供で結構。」

「かっわいくなーい!」

階段を降りる音が、コンクリートの建造物にこだまする。聞こえるのは二人の足音と、息遣いだけ。

「高校の夜回りのバイトなんて、引き受けるんじゃなかったわ。いくら友達の代理で今夜だけだとしても、アンタみたいなのと会っちゃうなんて。」

「じゃあ、断ればよかったじゃん。」

「そうね、今日バーテンの仕事が休みでなきゃ、やらなかったわね。」

思わず足を止めた。バーテンダー?こいつが?

「アラ、信じられない?」

信じられない。

「まあ、バーテンって言っても、オカマバーのバーテンだけど。」

それなら納得。

「そうだ、アンタも来なさいよ。」

そう言って、片倉はポケットから、一枚の名刺を取り出した。

「それ見せれば、ワンドリンクサービスよ。」

高校生に酒の誘いなんてして、良いのだろうか。

「うちのママ、凄い美人だから、アンタも惚れちゃうかも。」

「それは無い。」

キッパリと否定した。