雨と傘

「何読んでるん?」

僕の本を覗き込んで、沢木は言った。僕は眼鏡を少し上げながら、鬱陶しそうに答えた。

「夏目漱石」

「あー、何か授業でやったな。何だっけ、いのち」

「こころ、かな」

そう、それそれ、と沢木は僕の肩をポンポンと叩きながら言った。貴重な休み時間。僕はあまり読書を邪魔されるのは、好きじゃない。

沢木は野球部で、今年の夏に3年生が引退してからはキャプテンになった。僕に話し掛けなくても、くだらない話をする友人は沢山いるはずだ。それなのに、何故か、2年で同じクラス、特に席替えで前後になったら、やたらと絡んでくるようになった。

「そういう、難しそうな話ばっかり読んでんの?」

僕の集中したい気持ちには全く気付かない沢木は、尋ねてきた。

「純文学も、まあ、読むよ。基本はファンタジーが好きだけど。」

「恋愛小説とか、読まんの?映画とかになってるやつ。」

「あんまり興味無いかな。恋愛は、その、よく分からないから...

俯きながら答えた。

恋愛に興味が無いわけではない。共感出来ずにいる自分に劣等感を感じてしまうから、読まないだけだ。沢木みたいな、男女共にモテる、所謂リア充な奴には分からないんだろうな、こんな気持ち。

沢木は頭を掻きながら、気まずい空気を何とかしようとしている。

「俺は本とか読まんから、分からんけど、凄いよな。集中できるって。俺、じっとしてられんもん。」

野球に集中してるスポーツマンに褒められても、あまり良い気がしない。そっちの方が断然、格好良いじゃないか。

向こうで野球部の仲間が、沢木を呼ぶ声が聞こえた。沢木は立ち上がって、そちら側に手を振ると、僕の耳元でコソリと言った。

「今度お勧め、教えて。」

優しい声で囁かれて、驚いて顔を赤くした僕に背を向け、沢木は向こうに行ってしまった。

いつもこうだ。からかわれている気しかしない。悔しくて、恥ずかしいのに、心の何処かで喜んでいる自分が憎らしかった。

 

本が好きな僕にとって、図書委員は天職だった。古い紙の香り。図書室はさしずめ、僕の天国。

放課後、部活をやっていない僕には、図書委員の仕事は余暇を過ごすのにうってつけだった。

「吉村先輩って、沢木先輩と仲良いんですか?」

貸し出し本の整理をしている時、後輩の1人が言った。

「あ、私も気になってたんです。」

他の後輩もわいわいと、その話題を出してきた。

「沢木先輩って、吉村先輩と全然違うタイプじゃないですか。でも、移動教室の時とか、体育の時とか、沢木先輩が吉村先輩に話し掛けてるの、良く見るなーって。」

タイプが違う、には少々グサリとくる。

「仲が良いって言うか、向こうが絡んでくるんだよ。こっちは暇潰しに利用されて、全く困るよ。」

「良いじゃないですか。吉村先輩、友達少なそうだし。話す相手がいるだけ、幸せじゃないですか。しかも相手は沢木先輩!1年の間でも人気の野球部キャプテン!」

そんなに有名だったのか、なら尚更、何故僕なんかに話し掛けてくるんだろう。僕は沢木の事を何も知らない。

それから仕事を放って僕と沢木の関係や、沢木がどれだけ人気なのか語られて、僕の天国は一変、地獄と化した。

 

後輩の拷問が終わった時、もう18時を過ぎていた。昇降口に出ると、天気予報では夜中に降ると言っていた雨が滴っていた。

僕は天気予報に関係無く、いつも折り畳み傘を持ち歩いている。

これは拷問に耐えた僕の徳の高さにあるのだろう、なんて1人で口許を緩めながら、部活終わりらしい傘を持ってきていなかった奴らを見渡した。

すると校舎の方から、騒がしい声が聞こえた。野球部の軍団だ。勿論、その中には沢木もいた。

「げっ、結構降り始めてんじゃん。」

野球部の1人が雨空を見ながら文句を言った。

ふと、沢木と目が合い、急いで逸らした。

沢木は野球部の連中を置いて、すっとこちらに寄ってくると、言った。

「俺、吉村と帰るから。」

は?!

僕の返事を待たずに、傘に割り込んでくる。

「じゃ。」

野球部連中はポカンとして僕らを見送っていた。

 

僕らの歩みを遅めるように、雨は激しくなってきた。

沢木と2人で相合傘なんて。

黙って隣を歩いている沢木の横顔を見ながら、僕はため息をついた。それにしても、睫毛、長いなあ。目は意外と垂れ目。厳つい身体だが、顔付きは優しそうだ。

キョロリと沢木の瞳が動き、こちらを見た。目が合い、思わず逸らしてしまった。じっと見ていた事、バレてないだろうか。

「吉村って」

沢木が口を開いた。

「睫毛長いな。眼鏡で目立たないけど。特に、下睫毛が長い。綺麗な顔してんのな。」

何を言っているんだ。誰が見たってイケメンのお前に褒められたって、惨めになるだけだ。

僕はまたため息をつく。同じ趣味の話題なんて、無い。こんなに違う人間と相合傘なんて、何を話せば良いのか分からないし、気まずい。

そう言えば、と思い出す。お勧めの本を、とか言っていたっけ。スポーツマンが飽きずに読める本なんて、思い付かない。他の友達とスポ根漫画でも読んでいれば良いのに。何故そんなに僕にこだわるのか分からない。

そんな事を考えていると、突然、腰を引き寄せられ、反射で身体がびくりと反り、躓いてしまった。

「ごめん。」

低く、優しい声。

「吉村、肩濡れてるから、もう少しこっちに寄るようにと思って。」

こういう僕には無い優しさが、モテる秘訣なんだろうか。

僕は息を吸って、沢木に聞いた。

「何で」

「何」

「何で僕にばっかり構うんだよ。お前、他に友達いるじゃん。何で僕みたいな奴に」

そう言うと沢木は僕の口をその大きな手で抑えて、続きを塞いだ。

「そんな風に、言うなよ。」

塞がれたまま、黙って沢木を見上げた。真剣な眼差し。曇りのない、綺麗な黒い瞳。沢木の白目には黒子がある。初めて知った。

「俺が、吉村と仲良くしたい。一緒にいたい、じゃあ理由にならないか?」

何故、と言う目で沢木を見る。手で塞がれたままの口に、沢木はゆっくり近付き、口付けた。

僕は顔が真っ赤になった。何で。何でこんな。

「好き、だから。一緒にいたい。」

それから今度は塞いでいた手をそっと外し、僕の口に、直接キスをした。

「吉村は、恋愛に興味無いって言ってたけど、俺は吉村に興味があるんだ。もっと仲良くなりたい。」

声が出ない僕を尻目に、沢木は続けた。

「図書室で黙々と仕事してる姿見て、格好良いなって思ったんだ。あんなクールな奴と、仲良くなりたいって。そしたらどんどん目で追うようになって、気付いたら好きになってた。」

いつから、いや、僕は1年の時から図書委員をやっている。その頃から?じゃあもう1年以上も?全く気付かなかった。

「一つ、訂正させて。」

僕はやっと出たくらいの小さな声で言った。

「興味が無いのは、恋愛小説。恋愛自体に、興味が無いわけじゃないよ。」

沢木の顔が、ぱっと明るくなった。

「じゃあ...

「でも!」

僕は沢木を遮った。

「僕はお前の事、何も知らない。だから、その、ゆっくりで良いなら...宜しく。」

沢木が僕を抱きしめた。僕は傘を持っていた手を離し、沢木を抱き返した。そして今度はゆっくりと、お互いに目を閉じて、長い、長いキスをした。

気付いたら雨は小降りになっていて、雨雲の隙間から、日の光が差していた。水溜りがキラキラと、いや、世界がキラキラと、輝いていた。